爆音のない静かな空を!
~厚木基地周辺住民、半世紀の訴え~  第12回  【吉田敏浩】

070921_yoshida_04中国での戦場体験を経て
厚木爆同による飛行阻止の実力行使はこの1回だけである。参加者の多くは歳をとり、亡くなった。いまも健在な数少ない一人に、浜崎重信がいる。
浜崎は1920(大正9年、東京の文京区小石川生まれで、今年87歳になる。

尋常小学校卒の13歳で、外科手術用の鉗子〔かんし〕を作る医科器械製作の徒弟修行を始め、5年で一人前の職人となった。大和市鶴間〔つるま〕に仕事場兼用の家を建てたのが1957年。一昨年まで注文を受けて仕事をしていた。厚木爆同に入ったのは1963年である。

「日米政府は、厚木基地は必要だとの一点張りで、住民の声を聞き入れず、長年にわたって犠牲を強いています。国策には従えと言わんばかりです。しかし、国民が国家の言う通りに何でも従っていると大きな過ちにつながってしまいます」
そう浜崎が力説する背景には、中国での戦場体験がある。「お国のため、天皇陛下のために戦って手柄を立ててこいと教育を受けた」という浜崎は、19歳で志願して徴兵検査を受け、1940(昭和15)年1月、中国山東省で作戦中の独立混成第10旅団に入隊した。

6ヵ月の訓練を終え、歩兵部隊の軽機関銃班に配属される。初陣では中国国民政府軍のいる村を攻撃し占領した。畑の中を逃げていく母子の姿が見えた。小隊長が浜崎に「撃て」と命令した。
「なぜ村人を撃つのかと一瞬思いましたが、上官の命令は天皇の命令であって絶対です。

従わないとひどい目にあいます。撃ちました。数百メートル離れていたでしょうか。母子
の姿は畑の向こうの窪みに消え、弾が当たったかどうかはわかりませんでした」
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