爆音のない静かな空を!
~厚木基地周辺住民、半世紀の訴え~ 第17回  【吉田敏浩】

【厚木基地騒音公害04訴訟第3次訴訟、東京高裁での原告側勝訴の日】

【厚木基地騒音公害04訴訟第3次訴訟、東京高裁での原告側勝訴の日】

軍事最優先への怒り
東京高裁での判決が出たのは、1986年4月である。また飛行差し止め請求が退けられたのに加えて、「国防も基地の使用も高度な公共性を有し、その公共性の高さに応じて住民の受忍限度も高まるため、騒音被害は受忍限度内である」との理由で、損害賠償も認められなかった。

「高度な公共性の名の下に軍事を最優先させる判決には怒りを覚えました。住民に被害を押しつけて我慢させ、人権を侵害するのでは公共性とは言えません。個々人の生命・生活・人権よりも国家・国権に重きを置く考え方が背後にあります」と鈴木は述べ、かつての戦争中の苦い記憶を語った。

「あの当時、非国民という言葉がよく使われました。1942(昭和17)年、私が17歳で東京市立高輪工業学校の4年生のとき、仲のいい女学校の生徒と手をつないで歩いていたら、交番にいた警官に呼び止められました」

「そして、『おまえはいまどういう時代か知ってるのか。国民総力戦の非常時に、女とちゃらちゃらしている場合か。非国民だ!』と説教されたんです」
「女の子は帰されましたが、私は膝の裏に角材をはさまれて、コンクリートの床に正座させられました。まるで拷問です。

30分くらい。痛くて痛くて、痣ができました。私はただ女の子と手をつないで歩いていただけで、何の罪も犯していません。しかし、逆らおうものならもっとひどい目にあうので、黙って耐えるしかありませんでした」
「当時は人権も認められず、国家・軍が絶対の時代です。東京高裁の判決からは、非国民という言葉が猛威を振るった時代につながるものを感じさせられました」
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