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【独立派ゲリラのファルル司令官(左)とアグス(右)(99年/撮影:綿井健陽)

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追悼アグス・ムリアワン
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アグスはジャーナリストの訓練を受けていなかったが、取材の勘所はほとんどはずすことがなかった。
私たちの知りたいことは何なのか。それを語ってくれる人物は誰なのか。そして私たちの行くべき現場はどこなのか。アグスはジャーナリズムの基本的な作法をすでに身につけていた。その事実は私に軽い驚きと衝撃を与えていた。アグスの潜在能力はきわめて高く、単独で行動しても、十分な取材力を備えていたのである。

皮肉にも、今から振り返るとそこに落とし穴があったのかもしれない。状況を判断するアグスの能力は的確なものだったし、ひとりでゲリラ基地に留まったときも、私は彼の安全を案じたことは一度もなかったのである。

9月初旬、独立の是非を問う住民投票で独立派の圧勝が伝えられた直後から、インドネシア国軍と民兵による放火、略奪、殺戮が始まり、狂気は瞬く間に東ティモール全土へと広がっていった。この爆竹のように弾けた暴力を誰も制御できず、国連職員や外国人ジャーナリストたちは続々と東ティモールを脱出。

この時、綿井はディリ、アグスは中部の山岳地帯に設営されたファリンテルの基地で取材を続けていた。東京に戻っていた私は綿井と国際電話で何回もやりとりをしながら、刻々と変化する情勢の分析を行っていた。

「いつ取材を切り上げるのか」という私の質問に対して綿井は、「いちばん最後まで残っていたい」と言ったように記憶している。彼は冷静な男で、流動する状況への対応能力はきわめて高い。危険を承知のうえで、離脱のタイミングは綿井の判断にまかせよう、と思った。危殆に瀕しても、誰かが踏みとどまって、不条理な現実を記録せねばならない。フリーでも特派員でも、畢竟問われているのは、リスクを引き受ける己の覚悟である。綿井がその覚悟を決めているのなら、私が反対する理由はない。

081212_agus_0007.jpg【脱出するため空港へ向かう各国の報道陣(99年9月5日・ディリ/撮影:綿井健陽)

結局、彼はCNNやBBCの記者たちが脱出した後もディリに残り、取材を続けた。宿泊していたホテルも焼き討ちにあい、それでもギリギリまで粘った末、最後の民間機でディリを離れた。

一方、ゲリラ基地に滞在するアグスとは連絡がとれなかった。だが、私はまったく心配していなかった。焦土作戦を行い、無抵抗の住民たちを殺戮している国軍や民兵も、完全武装のゲリラ部隊と事を構える余裕はないはずである。山岳地帯でゲリラとともにいる限り、アグスに危険の及ぶ可能性は少ない。

9月中旬、ようやくアグスから連絡がきた。通常の電話線は通じておらず、インマルサットという携帯用の国際衛星電話を借りたらしい。彼は密林から出て、いまは中部のバウカウ市で教会の世話になっているという。

教会関係者は焼け出された住民たちの救援活動を行っており、彼らと一緒に行動していれば絶対に安全だ、ということだった。東ティモールの住民の9割はカソリック教徒であり、たとえ反独立派の民兵であっても、自分たちが洗礼を受けた地元の教会関係者に危害を加えることは考えられない。少なくともこのときまでは誰もがそう信じていた。

最後の連絡は事件の前日、9月24日の午後にあった。
「こちらは大丈夫です。明日から教会の人たちと泊りがけで取材に行きます。テープが底をついてきたので、一旦東ティモールを離れようと思います」

アグスの声は落ち着いていた。数日前から、民兵が跋扈する東部地域にもオーストラリア軍を主体とする多国籍軍が展開を始めており、バウカウ市内はもう安全だという。事実、国軍は東ティモールからの全面撤退を完了し、民兵たちも西ティモールへ逃亡を図るなど、20日間続いた焦土作戦は終わりを告げようとしていた。
「それじゃ、気をつけて...」
私は短くそう言って電話を切った。これがアグスとの永遠の別れとなった。
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