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『実務資料』に載っている、米軍人・軍属の「公の催事での飲酒」に関する日米間の質疑応答。[上の画像をクリックすると拡大します]

 

32 米軍人・軍属による交通事項と公務の問題
このような公務の範囲を米軍側に有利に拡大解釈する合意が、日米合同委員会で承認されるに至った背景には、1954年から55年にかけて米軍人や軍属が通勤途中に起こした4件の交通事故がある。いずれも日米合同委員会で議論された結果、公務中として事件処理された。共同通信記事(2008年6月16日配信)によると、4件の交通事故は以下の通りだ。
         

1.1954年11月24日、兵庫県西宮市で制限速度を20キロオーバーして走行中、道路を横断していた歩行者が押す乳母車に衝突。歩行者は地面にたたきつけられて重傷。米兵は職場のパーティーに参加した後の帰宅途中。

2.同年11月26日、兵庫県西宮市で高速道路を走行中、二輪車を追い越そうとして衝突。被害者は重傷。米軍属は通勤途中。

3.同年12月3日、東京都内の交差点で対向車線の車を避けようとして歩道に乗り上げ、歩行者をはねて死なせた。米軍属は私用車で通勤途中。

4.1955年1月26日、福岡県旧小倉市(現北九州市)で歩行者を背後からはねて重傷を負わせる。米兵は基地内で同僚とボウリングをしてビールなど飲食後の帰宅途中。

これらのケースを米軍側は公務中だと主張したが、日本側には異論があり、米軍人・軍属の公務の範囲について日米合同委員会刑事裁判権分科委員会での議論となったのである。
前述した法務省刑事局発の通達「合衆国軍隊の構成員又は軍属の公務の範囲について」には、この問題をめぐる日米間の議論の内容がわかるように、1955年11月21日開催の日米合同委員会刑事裁判権分科委員会の会議公式議事録が、「別添(2)」として付されている。
会議の出席者は、日本側が分科委員会日本側委員長の津田實はじめ法務省から3名、外務省から1名、警察庁から1名、海上保安庁から1名の計6名、米軍側が分科委員会米国側委員長のケネス・J・ホドソン陸軍中佐(法務部)はじめ陸軍から2名、海軍から1名、空軍から2名、極東軍司令部から1名の計6名である。
それは米軍側が質問し、日本側が回答する、質疑応答の形式に整理されて書かれている。そのなかでは、まず米軍人・軍属の住居や宿泊場所(ホテルを含む)と勤務場所との往復が公務に該当することが合意されている。そして、「公の催事での飲酒」をめぐって次のような質疑応答がなされている。
「(米)何が公の催事であるかということを決定する者は誰か」
「(日)行政協定第17条第3項(a)(ii) に関する公式議事録に掲げられている当該合衆国軍隊の構成員又は軍属の指揮官又は指揮官に代わるべき者の発行する証明書には、特定の催事が公的なものであるかどうかということの決定が記載されていると思われる。その意味において、当該指揮官又は指揮官に代わるべき者が一応の決定をすることとなる。しかし、右公式議事録における合意が、この証明書に適用されるべきことは当然である。
しかしながら、日本側としては、『公の催事』という用語は非常に狭く解釈されるべきであるということを強調したい。もし、数名の者が、飲酒のために任意に集合しても、飲酒する場合は、それは公の催事でない。しかし、公の、且つ、社交上の慣習により、一定の将校又は軍属が、一定の社交上の催事に出席することが、実際上要求されることがあることは認める。軍慣習によって、右のような出席が要求される場合には、このような催事を公務と認めることにやぶさかではない」(『実務資料』p.206 )
         
ここで日本側は、「『公の催事』という用語は非常に狭く解釈されるべきである」と主張しながらも、社交上の慣習により将校らが出席していれば軍の慣習上、それは「公の催事」であると認めている。おそらく軍の慣習に重きを置く米軍側の強い要求に妥協した結果であろう。 
しかし、その妥協が、「公の催事」での飲酒後に起こした交通事故なら「公務中」の出来事だという、公務の範囲の拡大解釈を許すことになったのである。
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