◆「もう終わったよ」
「いよいよ自決しようということになりました。櫛をけずる人、家族の写真を眺める人......。救急袋に持っていた制服を取り出す友だちもいました」
一緒に行動していたのは8、9人。手りゅう弾は二つ。安全栓を抜き、叩き付けた瞬間、我れ先に重なり合った。

「みな一番下になって木っ端微塵に死にたいんです。手足だけ切られて生き残ってハワイの『慰安所』に連れていかれたら大変ですから」
生きて虜囚の辱めを受けず――。戦陣訓の教えは10代の少女の骨身にも染みこんでいた。

しかし2発とも不発弾。途方にくれる新川さんたちの目の前に突然、岩陰から銃を持った3、4人の米兵が現れた。12歳くらいの沖縄の少年を伴って。
「姉さん、もう戦争は終わったよ」
「あんたはスパイだ。同じ日本人がどうしてそんなウソを」
いきり立つ新川さんたちを、銃を突きつけて米兵が追いたてた。連行されながらも新川さんは、下級生と手をつなぎ、「太平洋の真ん中に行ったら、甲板から飛び込んで死のうね」とささやきあったという。

証言する新川初子さん(87)

証言する新川初子さん(87)

◆亡き友の願い届け
「あの頃は、神風が吹くと信じていたのです」
古里を長く離れて暮らす新川さん。「亡き恩師や学友たちが、あのサンゴ礁の下で声なき声で、願い、叫び、訴えている。その声を私は声にしなければならない」と関西の地で体験を語り継いでいる。

「みんな『死にたくなかった』と思っているはずです。戦争のない真の平和、誰にも平等な平和が世界の津々浦々に訪れることを願ってやみません。どうぞ私の話を、次の世代の人に伝えてください」
(おわり)

【注:ひめゆり学徒隊】
米軍の沖縄上陸に備えて日本軍が組織した学徒隊の一つ。沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒で構成され、傷病兵の看護などにあたった。戦局が悪化すると日本軍とともに南部に撤退、6月18日には解散命令が出た。引率の教員を含む240人のうち、教員13人、生徒123人の計136人が犠牲に。このうち100人以上が解散後数日で亡くなった。戦後、総称して「ひめゆり学徒隊」と呼ばれるように。沖縄戦では、県内の男女学生約2000人が鉄血勤皇隊や学徒看護隊に動員され、約半数が死亡した。
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