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ナイアガラ・ガゼット。カナダとの国境沿いにあるナイアガラ・フォ-ルズ市を拠点にする米国のロ-カル紙。 ピーク時には5万部に近かった部数も現在は1万部強まで落ち込んでいる。

ナイアガラ・ガゼット。カナダとの国境沿いにあるナイアガラ・フォ-ルズ市を拠点にする米国のロ-カル紙。 ピーク時には5万部に近かった部数も現在は1万部強まで落ち込んでいる。

◇ ナイアガラの滝の新聞社で写真記者事始め
1995年の春、一切合切をスバルのライトバンに積み込んで、ユタ州から一路、ニューヨーク州西部のナイアガラの滝がある街を目指して私は車を走らせた。 3000キロを越すドライブを経てナイアガラ・ガゼット紙(以下、ガゼット紙)の本社屋の前に到着したのは4日目の夕方だった。カナダとの国境の街は、4 月だというのにまだ雪がちらついていた。(アイ・アジア編集部)

さっそくインターホンを押して来訪の意を告げたが、ドアがなかなか開かない。後で聞けば、中では記者たちが防犯カメラのモニターに映し出された私の 姿を見ながら「この怪しげな男は誰だ?」と話していたらしい。長旅で憔悴しきっていた私は相当ひどい恰好をしていたにちがいない。もっとも、新聞社の周り の治安が悪いということもあったようだが。

ナイアガラの滝といえば世界的に有名な観光スポットだ。それが目と鼻の先にあるにもかかわらず、ナイアガラ・フォールズ市のダウンタウンは荒廃して いた。空きビルや空き家が目立ち、路上にはホームレスの姿も散見された。観光地化に成功したカナダ側のナイアガラ・フォールズ市とは対照的に、アメリカ側 は1950年代にピークを迎えた重工業に頼り続けてきたため、地元の工場と共に長い衰退路線を歩んでいたという。

ガゼット紙は発行部数3万部。人口5万人の市の唯一の新聞で、市で起きるあらゆることをカバーしていた。編集スタッフには編集長以下、記者が20人程度、写真記者は私を入れて3人だった。

新聞社から歩いて10分程の家の一角を間借りして、私は写真記者としてのキャリアを歩み出した。その記念すべき物件は、元々あった大きな古家を観光 客相手の宿泊施設に改造したものだったが、商売に失敗したのか当時はアパートとして各部屋を安く貸し出していた。私は最上階の2部屋を借りた。家賃は月 325ドルだったと記憶している。

出勤は午後2時だった。一日に3本から4本の取材が待ち受けていて、多い時には5、6本あった。翌日の朝刊の締め切り時間である午後11時まで走り回った。まだフィルムを使用していて、カメラは社から与えられたニコンのF4とN8008だった。

取材は、街の声を拾って彼らの顔写真を撮るような簡単なものから、事件現場や事故現場、それにNFLアメリカン・フットボールのバッファロー・ビル ズやNHLアイス・ホッケーのバッファロー・セイバーズなど、地元のプロ・スポーツの試合まで多岐に渡った。当然だが、街の最大の収入源であるナイアガラ 滝周辺のイベントや観光事業もフォローした。
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