かつて日中戦争で戦場となった中国の農村地帯 撮影 吉田敏浩

かつて日中戦争で戦場となった中国の農村地帯 撮影 吉田敏浩

 

◆ 中国人青年の視点から日本軍による侵略戦争を描く

「洞窟の中の満月」の作者、富士正晴は1913年(大正2年)に徳島県に生まれました。旧制三高時代より詩作を始め、編集者の仕事をへて、戦後、作家となります。

1944年(昭和19年)に、軍隊では老兵の部類にあたる31歳で召集され、日本陸軍歩兵として中国の華中・華南(中部・南部)の戦線を転々としました。

戦後、1946年に中国から復員しました。戦争文学の名作のひとつと評される『帝国軍隊に於ける学習・序』、毎日出版文化賞を受賞した評伝『桂春団治』、若くして自殺した女流作家を悼む『贋・久坂葉子伝』などの代表作と洒脱なエッセイで知られています。

大阪府茨木市の竹林に隠棲し、文壇的流行にとらわれず、1987年に亡くなるまで市井の人の視点をつらぬきました。

「洞窟の中の満月」は戦争体験を題材にした連作短篇のひとつとして、1952年に発表されています。作者の経歴からして、ここに描かれている日本軍の姿は実像にちがいないでしょう。

作者が実際に、中国人の村民が洞窟に隠れる事例に出くわしたことがあるのか、あるいは耳にしたことがあるのかはわかりません。

しかし、中国人青年の視点を通じることで、自らもその中に組み込まれていた日本軍を加害者として客観視したうえで、調和のとれていた小宇宙でもある地域共同体を打ち砕く軍隊組織の生態を冷徹に描き出しえています。