戦没船員の碑の前のレリーフ。戦場となったアジア・太平洋の地図を彫っている。撮影 吉田敏浩

戦没船員の碑の前のレリーフ。戦場となったアジア・太平洋の地図を彫っている。撮影 吉田敏浩

 

◆輸送船は米軍の潜水艦や戦闘機の標的だった

国家総動員法によって徴用され、船員として日本軍の輸送作戦に従事した真田良〔さなだまこと〕さんは、1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争開戦後、ただちに日本軍のマレー半島・シンガポール攻略作戦のための輸送船団に加わりました。

輸送船団は、元もとは民間の客船や貨物船などで、国家総動員法によって徴用されたものです。

真田さんの乗り組んだ賀茂丸は、当時のイギリス領マラヤのコタバルとタイ領シンゴラへの上陸作戦の輸送任務につきました。

日本軍によるシンガポール占領後は、ビルマ戦線への輸送のためラングーンに、さらにフィリピンのコレヒドール要塞陥落直後にはマニラに入港。そして、フィリピンの島々を往来する輸送作戦に従事したのでした。

「日本軍は当初、破竹の勢いで勝ち進んでいました。私も忠良なる皇国船員として任務に励みました。しかし、昭和17年の秋頃から、アメリカ軍の潜水艦や戦闘機などによる輸送船への攻撃が激しくなったのです」

「兵隊と武器弾薬など軍需物資を満載した輸送船は恰好の標的です。しかも、日本海軍は艦隊決戦を最優先して、輸送船の護衛は軽視していました。ろくな護衛もないまま、輸送船は次々と沈められてゆくようになりました」

そして、賀茂丸は1942年秋から、ニューギニアに近いラバウル、ブーゲンビル、ガダルカナル方面への輸送任務につきました。

日本本土から部隊を乗せての航海。植民地台湾や朝鮮の釜山、中国の上海、フィリピンなどからの兵力移動のための航海。

数隻から十隻ほどの輸送船団のうち、アメリカ軍の潜水艦や飛行機の攻撃をかいくぐり、目的地にかろうじてたどり着くのは半数にも満たないほど、戦況は厳しさを増していきました。

★新着記事