戦没船員の碑 撮影 吉田敏浩

戦没船員の碑 撮影 吉田敏浩

 

◆ 6万人を超える戦没船員

神奈川県横須賀市、東京湾と遠く太平洋の水平線を望む観音崎。

そこには、アジア・太平洋戦争で国家総動員法によって徴用され、日本軍の輸送作戦に従事して死亡した船員の慰霊碑、「戦没船員の碑」が建っています。

1971年に財団法人「戦没船員の碑建立会」(後に日本殉職船員顕彰会が継承)の手で建てられた石碑には、「安らかに ねむれ わが友よ 波静かなれ とこしえに」と刻まれ、戦没船員6万人以上の名前が記された名簿が安置されています。

『慟哭の海』(浅井栄資著 日本海事広報協会 1985年)によると、1941年12月から45年8月まで、日本近海から太平洋、東シナ海、南シナ海、インド洋にかけての広大な海域で、沈没した商船は2534隻でした。

総トン数で表すと、開戦時に保有していた638万総トンと戦時中に急造した383万総トンの計1021万総トンのうち、883万総トンの商船が失われたことになります。

前掲書によると、1941年の太平洋戦争開戦当時の日本の商船隊船員は総数7万6100人でした。まず2万6100人が船員徴用令で動員され、1945年の敗戦までに延べ10万930人の船員が徴用動員されました。

そのうち約3万人は戦傷病などのため、長期療養または徴用解除になったので、終始乗船中または乗船待機中の船員は約6万930人でした。

そのうち3万592人が戦死したと公表されています。そして、商船と機帆船と漁船の戦没船員を合わせると、「損耗率」(生存者対戦死者の比率)は推計で43パーセントにも達します。

前掲書によると、その比率は、陸軍の20パーセント、海軍の16パーセントと比べて驚くべき高さでした。

輸送船がいかに危険にさらされたか、日本軍がいかに輸送船の護衛を軽視したかがわかります。

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