この日、汐凪さんの遺骨が福島県警から家族に渡された。 (2016年12月31日 福島県いわき市にて撮影:尾崎孝史)

 

◆人々の記憶の中で生き続けていく

町を襲った原発事故と突然の避難から6年。汐凪さんを待ち続けた人はどう受け止めているのか。

汐凪さんの担任だった橘内悦子先生は、教え子とともに会津に避難し、その後いわき市の学校に転勤となった。

「私も二度ほど捜索のお手伝いに行きました。お父さんが捜しに捜していたので、やっぱり願いは通じるんだなと思って嬉しかったです。

いま、3月11日は学校に行けないという子どもや、福島出身だということを隠して暮らしている教え子もいます。そういう子どもたちのために、汐凪ちゃんには、『私は死んじゃったけど、生きていたらいいこともあるんだよ』って……、空から見つめてあげて欲しいと思っています」
震災翌朝、捜索を行った元大熊町消防団の猪狩広さん。

「汐凪ちゃんとは地区の集まりで風船キャッチボールをした思い出があります。私も朝起きると、『なんでここにいるのだろう』と、いまでも不思議な気持ちになります。原発事故さえなかったらというのはありますよ、もちろんね。もう少し捜していれば、王太さんや汐凪ちゃんがいたかもしれないですし」

深雪さんが育った岡山で、汐凪さんの帰りを待っていた祖父の小守幸義さん。変わり果てた孫の姿に心境は複雑だ。

「深雪のお墓に向かって、『汐凪、やっと見つかった』と報告しました。 『よかったね』と言ってくれる人もいますけど、関西では東日本大震災と関係ない人が多いですから、あまり話題にはなりません。見つかったのが汐凪の体のほんの一部というのが残念です。汐凪にしたら体を切り刻まれた感じになるでしょう。がれきの中からというのも心に突き刺さるというか、腹立たしいところがあります」
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