三一独立運動の先駆けとなったのは、その前月の2月8日、東京で朝鮮からの留学生が集い発した「二八独立宣言」だった。現場となった東京・千代田区の在日本韓国YMCAには、これを記念する石碑が建っている。(撮影:加藤直樹)

◆三一独立運動とは

もうすぐ3月も終わるが、日本と韓国にとって、今年の3月1日は特別な意味をもつ日だった。かつて日本の植民地支配下にあった韓国全土で「独立万歳」を叫ぶ「三一独立運動」が起きてから、ちょうど100年を迎えたからだ。韓国では、この日は「三一節」と呼ばれる祝日であり、毎年、政府主催の記念式典が行われている。だが日本では、「この式典を機に韓国で反日感情が盛り上がるかもしれない」といった不安を表明する報道ばかりが目立った。だが本当にそうなのだろうか。

そもそも三一独立運動とは、どのような出来事だったのか。

日本が韓国を併合したのは1910年8月29日。義兵闘争と呼ばれる各地の武力抵抗は、その前にほとんど一掃されていた。三一独立運動が起こるのはその9年後の1919年3月1日のことだ。

この日、天道教(東学)、キリスト教、仏教の指導者ら33人が民族代表として「三一独立宣言」を発し、これを機に京城(ソウル)、平壌、大邱、元山などの主要都市で「独立万歳」を叫ぶデモが始まった。ひそかに各地に配布されていた独立宣言を、知識人や学生たちが群衆の前で読み上げる。独立運動の側から書かれた『朝鮮独立運動之血史』によれば、全国1500カ所以上で集会が行われ、全人口の1割に当たる約200万人が参加したという。

当時、朝鮮で強大な権力を有していた日本軍は、これを徹底的に弾圧。デモは騎兵隊に蹴散らされ、発砲によって死傷者が続出した。現在の梨花女子大の前身である梨花学堂に通う16歳の女子学生・柳寛順(ユ・グァンスン)は、郷里のデモに参加したが目の前で両親を射殺され、自らも逮捕されて獄死した。先の書によれば逮捕者は全国で約4万6000人、死者は約7500人を数えたという。

当時の日本のメディアは、この出来事を正面から報道しようとはしなかった。外国の宣教師たちが背後で扇動したのだといった陰謀論を展開したり、運動指導者の私生活のゴシップを書きたてて貶めたりした。朝鮮人は甘い顔を見せるとつけ上がるから徹底的に鎮圧せよ、と書いた新聞もあった。“多くの朝鮮人が日本からの独立を求めている”という事態の本質を直視しなかったのである。

だが朝鮮人の側は、日本人の良心と理性に期待していた。そのことは、運動の発端となった「三一独立宣言」のなかにはっきりと示されている。

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