そこで何も敵意を見せる必要はなくて「とにかく手を振るしかなかった」と。イラクでも子ども達にとっては、米軍でもオランダ軍でも、外国の軍隊そのものが珍しいわけです。手を振っているという行為だけをもって「住民がみんな歓迎している」と判断する。そんな単純な、勝手な「思い込み」の怖さが感じられます。

それから、砲弾やミサイルが撃ちこまれると、炎や煙があがりますよね。しかし、はたして炎や煙というのが戦争の姿を本当に映し出しているのでしょうか。さっき辺見さんが言われた「戦局報道」と「戦争報道」とは違うと思うし、「戦闘」と「戦争」もまた違うと思います。

戦闘というのは戦争の一部でしかありませんし、銃弾が飛び交うところだけが戦闘ではないと思います。さっきも言っていたようになんでも抽象化してしまうというところから言うと、戦争の被害というのは個別の具体的な被害なわけです。

今回のイラクでもバクダッドでも、全く戦争の被害を受けなかったところもあれば、一方で手や足を失った人もいます。僕が今でも覚えているのは、クラスター爆弾の破片が目につき刺さった女の子がいたんです。ハディールちゃんという12歳の女の子なのですが、彼女のレントゲン写真を見たら、右目のところに2ミリくらいの白い点があったんです。

その白い点を見たときに、彼女にとってのイラク戦争とはこの「白い点」であり、この「小さな破片」なんだと感じました。
彼女にとってのイラク戦争の実体とは、目の中につき刺さっている破片だし、手を失っている人にとっては、本来あるはずの自分の手だったりするわけです。様々な戦争の側面のなかで、どんな声を、だれの声を伝えなくちゃいけないのか、そこを取材する側が冷静に判断することが重要なんだと思います。

野中
辺見さんは、共同通信の記者ということで、世界各地を色んな形で回られたわけですけれども、いま綿井君が提起したように、「どの視点から伝えるか」ということに関して辺見さんはどうお考えですか。(続く)

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