野中章弘×辺見庸×綿井健陽 対談(10)
作家 辺見庸とアジアプレス 野中章弘、綿井健陽が、
イラク戦争と報道、そして自衛隊派遣の論理を問う
(この対談は2003年12月27日に収録されたものです)

【引き倒されるフセイン像を見つめる人びと】(バグダッド・2003年/撮影:綿井健陽)

辺見 これは大問題だと思いますね。人類社会の戦争反対運動においてイラク戦争が本格的に始まる前の一千数百万人という反対デモの規模は、ベトナム戦争を含めても最大規模だと思うんですね。

でも日本ではどうだったかといえば、実にお寒い限りでした。イギリスでは戦地に送られる兵士を輸送する鉄道に座りこんだりして、一家族に一人は反戦デモに出ていると言われるくらいの切迫感があったんですね。

スペインもアスナール政権打倒という目標がはっきりしていた。日本のように『イマジン』を流して感傷に浸っているようなデモではなく、かなり荒れたデモでした。
イラクに対する侵略攻撃と有事法制の国会通過と北朝鮮への問題は重なってくるわけです。

マスメディアや言論界はこの間の危機感に呆れるほどの無関心だと言えるし、僕らが顔出している大学でも無に等しいくらいの反応しかない。この状況は一体何なのかと思う。
今回の選挙で社、共ともに惨敗だった。これからもこの国のメディアの有り様やこの国がどういう風に歩んでいくのか、いまはとっても大事なポイントだと思っているんですよ。

一つには戦争に反対していくことに対して無関心なのではなく、それを表現する回路を戦後社会のどの時期よりも失っていると思うんです。連綿と続いてきた「異議申し立て」の回路のようなものがなくなっている。

怒りや悲しみ、特に遠い国の他者に対する共感や、その人達の苦しみに対して我々が共有する怒りや悲しみを、戦後のどの時期よりも持てなくなっている。これははっきり言って僕もわからないですが、おそらくマスメディアの作用は決定的に大きいだろうと思っています。マスメディアは人間の心の奥深くに入っていくような言葉や映像を出しえていない。

人間には怒りや悲しみ、さっき綿井さんが逡巡とおっしゃったが、「こうしていいのか」というためらいは非常に大事なことですね。時には「こんなことが許されるのか」という怒りでもある。それを僕は人間が人間的な経験をした時にできる「知」であり、「経験知」と言っているんですよ。我々が他者に共感したり、例えば早稲田大学でレイプ事件が起きたことに対して「許せない」という怒りを他者と共有することは「経験知」だと思うんです。

それを稀釈するもの、薄めるものは何かと言えば「メディア知」だと思う。新聞を読んでもそういうことは書いていない、テレビでおちゃらか番組を観て皆笑っているじゃないか。何も昨日と今日は変わらず、明日も変わらないに違いないという価値観を毎日植え付けているのは「メディア知」だと思うんです。「メディア知」は人を怒りには誘わない。

装置として虚栄のマスメディアには、戦争反対のために立ち上がらせることはないと僕は思っている。人間知、あるいは経験知のようなものが勝てるかどうかだね。よく学生から「どうすればいいのか、どういう情報を読めばいいのか」という質問を受ける。
次のページへ ...