【倒されたフセイン像に群がり叩く男たちと、それを撮影する外国人記者たちのカメラ】(バグダッド・2003年/撮影:綿井健陽)

僕はアジアプレスのような媒体は高く評価するけれど、それで勝てるかというとそれはわからない。個別のバトルでいい線にいくことはあっても、マスメディアを補完する機能があるために辛いと思っている。

今、戦争状況の取材、マスメディアの機能という話合いの中で、綿井さんが唐突に「自分は逡巡やためらいというものを大事にしたい」と言った。これは極めて新鮮で、これこそが人間的な「経験知」だと思っている。

ところがメディア知はこういうものを一切無視して、何を学生みたいなこと言っているのかと冷笑するよね。それを打破する契機は個人にしかないと思う。

メディアの巨大な装置の中でボルトの役割をしている一人一人が個として振舞い、組織の装置から精神的に離脱する必要があると思うんです。僕も時々反戦パレードに出るけど、皆がアメリカ式になっていてうんざりするんだよね。「戦争も自衛隊もアメリカ方式で、政府もアメリカべったりなのに反戦デモもアメリカ式かい」と皮肉を言って随分ブーイングを受けたことがある。

『ボーリング・フォー・コロンバイン』を観て感激してその通りのことをやろうとする。別にナショナリスティックに言っているわけではなく、アメリカからオーソライズされた情報をえなければ何故できないんだと思う。アメリカの戦争政権に対して完全に身も心も委ねているのは日本だけですよ。

ブレアでさえも腰が引けているのに、「日本国民の精神が試されている」と言われてその気になって新聞に書くか。これはもうバラけるしかない。新聞記者がセクションで動くのではなく、自分一人で動くべきだと思う。

この前札幌の大学で講演があって行った時に北海道新聞の記者と話したんですが、今度の派遣部隊は北海道が中心だよね。派遣問題をみる北海道の眼差しは関東と違い、他人事じゃなく辛いものがあるんです。生活もかかっているため、一括りに「反戦」では済まない問題でもある。

僕が行った12月の零下3℃くらいの日に、札幌で23歳の女性が「第2次部隊で派遣される自衛隊員の恋人をとらないでくれ」という紙をぶら下げて立っていたんです。これは大きな記事になっていない。政治的な背景はないけれど、彼女はただでさえなかなか会えない自分の恋人を、戦争にとられるのは嫌だと署名を求めていたんです。午前中から始めて夜までに150足らずしか集まらなかったそうだけど、雪の中で一人でやるのはいかに勇気がいることか。

総理大臣が日本国民の精神を見せてやれと言って、憲法の前文をでたらめに解釈している。国際社会で名誉ある地位を得ることと自衛隊を派遣することを結びつけた、あんなにひどい解釈はない。戦後の自民党政権の中でも、これほどひどく泥靴で憲法を踏みにじるような発言をしたのは彼が初めてだよね。
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