番刀1本の兵隊
台湾・川中島に旧日本軍の志願兵を訪ねる。老兵の語る戦争の記憶。

生前のワリスピホ(米川)と孫。自宅前で。

川中島の「ヤマトダマシイ」
台湾のへそと呼ばれる埔里の町から田舎のバスに揺られること40分で、川中島の入り口に着く。オビン・タダオら霧社事件の生き残りの人たちも、埔里を経由してここへ連れてこられた。

わたしが、川中島を訪ねた90年代半ば、前回ご紹介した「ワリス・ピホ」(日本名・米川)のほかに、元日本兵という方がまだ2名生きておられた。 

米川によると、約70戸の川中島から終戦までに20数名の若者が志願し、生きて帰ったのは10名に満たないという。そのうちの3名に会うことができたわけである。

一人は、米川の家のすぐ近くに暮らす前田則夫である。民族名パワンナウイ。68歳。身体の状態がよくなく、静養中とのことで、自宅にいた。取材の意志を伝えると彼も白い軍帽を被って現れた。
第6回義勇隊に志願し、フィリピン、ラバウル、ソロモンと転戦。川中島から同行したのは4人で、3人が生還した。しかし、うち2人は帰国後まもなく病死している。あれは戦死と同じだと前田は言う。

「どうして志願したんですか」
「ヤマトダマシイが欲しいからですよ。学校で習った。肉弾三勇士。あんな写真が欲しかった」
「結局義勇隊に?」
「軍属ですよ。階級もない。靴もない。番刀1本だけ」

「どうして靴がないんです」
「特別切り込み隊だから。音がするでしょ。訓練のときも、船に乗るときも裸足」
「ジャングルでも?」
「もちろん。マニラに着いたとき、向こうの兵隊がびっくりして集まってきました。お前らどこからきたんかって」
「みんな裸足だから?」

「そうよ。それから、ソロモン行って戦争した。最後はタマもなくなって、銃も捨てた。番刀1本で突撃するんです」
「番刀」というのは、山の男たちが一定の年齢に達すると必ず携帯していた短刀である。通常は1尺、戦争用は1尺半、約50センチもある。これ1本で、敵の首も狩り、猟にも使い、木や枝もはらう。幅が10センチほどもあって分厚い。短刀というより、鉈に近い。
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