正月早々、台湾より八重山に渡る。
(写真右:八重山には初夏のような陽射しが降っていた)
台湾東部海岸から八重山諸島の与那国、すなわち日本の最西端まで、111キロ。

晴れた日には見える距離である。基隆港から石垣港までも、船で6時間、航空機なら半時間余りだが、定期便はないので、台北から石垣に渡るには、やはり那覇を経由しなければならず、那覇まで1時間、それからまた小1時間費やして石垣まで戻ってくる格好になる。

行程は手間だが、台湾と八重山は、まさに隣同士、唇歯の間にある。
降り立った石垣には、初夏のような日射しがさんさんと降っている。気温は台北より五度は高い感じである。セーターも、カッターも脱いで、Tシャツ一枚になる。海外旅行が目減りした分、旅客が沖縄に集まっているとかで、正月期間中、主要ホテルは満杯とのこと。

石垣を中心にした八重山は、明治維新後の琉球処分を経て、沖縄本島とともに日本国に統合された。日本にとっては「新しい領土」だった。それまで、八重山と日本(ヤマト)は、およそ無関係の世界だった。無論、言葉も通じない。

その未知なる島へ、まずやってきたのは、新しい統治者であり、ついで、研究者だった。そのトップバッターともいうべき人物が、田代安定(たしろやすさだ)である。田代は、わかっているだけで、3回にわたって調査に訪れ、最長10か月も滞在し、八重山のあらゆる事象を研究した。マラリヤや島民の反発とたたかいながらの苦難の日々であったという。

田代は、その後、八重山開発の提言をまとめるが、新政府はそれを採用しない。がっかりした田代を励ますかのように、日清戦争が勃発する。彼は、従軍を願い出て、軍艦に乗る。戦争は、日本の勝利に終わり、下関条約が締結されるや、田代は、新しい領土、「台湾」へさっそくやってくる。田代は、もっとも早期に台湾に入った日本人科学者となり、熱帯植物の研究にその一生を捧げることになる。
今回は、その田代の足跡を追って、八重山に来たのである。
(2004年1月X日)