ペンガン・パーワン(右)とタッパス・ナウイ
( 霧社・トロックにて)

霧社には多くの日本人が訪れる。でも、おそらくこの部落までやってきた日本人は数少ないであろう。むかし、蝶々を捕りに来た人がいたというだけである。
このトロックから何人の人が戦争に行き、何人が亡くなったのか、彼自身も知らなかった。どこの集落でも誰もそんなことに関心を持たなかった。彼らは、過去の遺物として戦後を生きてきたのだ。
しばしの沈黙の隙を狙っていたように明るい声が飛び込んできた。
「日本のどこからきたのですか?」
この人のご主人は、志願兵で戦地に行きましたと、ペンガン・パーワンが紹介してくれたその女性は、タッパス・ナウイ(昭和2年生)、日本名を大石君子と名乗った。
タッパス・ナウイは、三月の身重で亭主の出征を見送り、四年待ったという。この辺境の地に過ごしてきたとは思えないほどにはきはきした日本語で、わたしはいささか驚いた。
その声で彼女は「志願兵」という歌を唱ってくれた。
ああ 感激に溢れたる
喊声 天に轟けり
六月二十日 空晴れて
栄誉は 燦と輝けし
我等 誉れの志願兵
6月20日というのは、昭和20年、台湾において志願兵制度がスタートした日である。彼女は記憶もまた完璧だった。そして、さらに「テンノーヘイカバンザイト・・・」も唱ってくれた。
警官を先頭に赤いたすきの出征兵士を囲んで村人が霧社まで行進した。車を飛ばしても一時間半はかかる距離をである。その光景が二人のなかに甦ってきたのであろうか、山本が口を挟んだ。
「生きて帰るなんて考えてもみませんでした。靖国神社で会いましょうという精神ですよ」
夕闇がすぐそばまで迫っていた。帰りかけたわたしの足を止めて、大石は手編みのテーブルクロスを持ってきた。土産だと言う。
「やなぎもとさん、またきなさいよ」
その言葉がいまでも山のこだまのようにわたしの耳の奥で消えないのである。
(完)
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