八重山研究、台湾研究の先駆けとなった田代安定の出身は、鹿児島である。加治屋町という下級武士の屋敷街に生まれた。周囲には、西郷、大久保をはじめ維新の英雄たちの家がずらりと並んでいる。(写真右:鹿児島市加治屋町の偉人館では毎年偉人祭が挙行される。)

田代の出生は、ペリー来航から四年後の1857年。もう少し早く生まれていたら、京の夜を舞台に長州や新撰組と白刃を交わしていたかもしれない。
加治屋町内会には偉人館という建物があり、西郷、東郷、大山ら町が生んだ明治の「偉人」16名を顕彰している。そのなかに、驚くべきことに田代の名前もある。しかし町内会長は、この人は何をした人ですかね、と首をかしげた。

鹿児島の著名な郷土史家にも尋ねたが、田代の名前は知らなかった。図書館のあらゆる人名辞典を調べても、まず田代安定の名前は出てこないだろう。おそらく世界中で、田代の名前がわずかでも通じるのは、石垣と台湾だけではないかと想像する。

確かに石垣で、博物館、図書館、教育委員会、どこへ行っても、田代の名前を出して怪訝な顔を浮かべる人はいない。むしろ意気込んで、持論を話してくれる。
いつもお世話になる八重山博物館の得能さんは、田代と笹森儀助の両者を較べながら、石垣での評価を話してくれた。

田代が、農商務省の出張命令を引っさげて、初めて八重山に来たのは、明治15年である。琉球処分が明治5年、反対をおしきって強行に沖縄県を設置したのが明治10年。田代が上陸した頃は、まだ島内の情勢には不穏なものがあったという。一方、笹森の沖縄「探険」は、それから10年後の明治26年。両者はもっとも早期に八重山を踏査、研究した「奇人」として、並び称されているのである。

初夏のような陽射しの市内をてくてくと歩いて石垣市立図書館に向かう。まるで真冬とは思えない。やたら警察が多いと思ったら、月末に天皇・皇后両陛下が来島するという。明治10年に無理やり日本に併合して以来、天皇が来るのは初めてということである。ある人が、「これで八重山の処分は完成することになる」と皮肉った。しかし島内のどこにも、反対する動きもムードもないようだ。
(2004年1月X日)