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khchongjin-071225私は何故北朝鮮を脱出したのか (4)
しかし、私にはそれ以外の選択肢はなかった。私は就職していながらも収入がなかったのだ。
何一つ対策のない全社会的混迷運動たる"苦難の行軍"では、誰もが犯罪と死、そしてコチェビになる里程標に従って"行軍"しなければならない。
"50年共和国"の終幕はこのように始まった。

95年からは、職場に出てくる者は、"超馬鹿"となった。
私が勤めていた工場大学(従業員が数万名以上になる大企業の高等教育機関)は、学生は労働者や下級幹部でもあり、自然と休校状態になった。国の上級公務員である大学教員に対してすら、国家からの支給はいつの間にか消滅していた。

私は"解雇"されてもいなかったが、出勤者を見る幹部らの目からは、いまだ"国家"に期待する<抗日遊撃隊式自力更生の革命精神の不足者>とする冷気が感じられた。

そうだった。大学の実験資材や設備等はすべて盗難にあい、管理者とそれを助ける者の<自力更生>、私有物に転落していった。
深夜であっても、人間の力で容易に動かせないモノを学校から運び(盗み)出さなければならないほど忙しい彼らにとって、真昼に仕事の無い職場へ出てくる平教員は、大なる邪魔者だった。

密造酒では生計を立てることができないことがはっきりした95年夏、私にはダブルの不幸が降りかかった。密造の元手は、前年秋に、日本からの送金で余裕のある知り合いの帰国者から借りたものだった。

95年の冬は世の中をひっくり返してしまった。あたかも冬眠から覚めたように、今まで見えなかった高利貸闇金融の慣行が北朝鮮にもすい星のように出現したのだ。

民間では"月30%利子"の金融と、それを煽るように、国家も突然"実利"を求め始めた。これが新年の新しいスローガンになった。すると、その債権者も早速新時代式の返還を求めだした。貸す時はすでに旧時代、その6ケ月後の返還は断然新しい時代だった。
もちろん新時代にもそれなりの道徳はあったが、"貸すのはバカ',返すのはもっとバカ"とみなされた。

私に支払能力がなさそうだと見立てると、彼らは服から台所のお釜まで、すっかり財産を吐き出させて、元手相当の分をなんとか回収すると、今度はすぐさま利子の分として、まだ家族が住んでいる国家住宅の'差押権'を見知らぬ第三者に個人的に譲渡してしまったのである。
多くのチンピラを立てて、私の家族を路上生活に追いやることになる'住宅差押'の場には、大学の党書記もきて,それをやめさせようと努めた。しかし、新しい時代には、党秘書もすでに普通の個人に過ぎなかったのだ。

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