【写真: 靖国神社の前で「主権在民!共同アピールの会」の代表たち】
(月刊「望星」06年2月掲載分---その2)

「国家」をもっとも上位の概念に置くという「愛国心」は、畢竟「国のために命を捧げる」ことを厭わない国民を育てあげ、戦争へ人びとを駆り立てるものとして使われる。「国家」にとってこれほど便利で使い出のあるものはない。「愛国心」とは「国家」への忠誠を条件として成立する概念だからである。

チャンネル桜の議論でも、「愛国心というものは議論の対象とするものではない。絶対的な価値なのだ」と言う論客がいた。彼にとって「愛国心」とは身も心もすべてを委ね、命を捧げるのに値するものとして認識されているようである。

たとえ「国」が誤った戦争を起こしたとしても、たとえ負け戦とわかっていようとも、「国」と運命を共にしようという態度である。それがぼくにはわからない。

また「愛国心」の具体的な中身もよくわからない。家族や故郷を愛しいと想う気持ちはよくわかっても、それがそのまま「国家への愛」に回収されてしまうことへの疑問はないのだろうか。
何時間かけても、「右」と「左」の「愛国心」をめぐる議論は延々とグルグル、グルグルとカラ回りするだけで、一向にかみ合いそうもなかった。燃焼されない、精神の疲労感だけが残った。

チャンネル桜の収録が終わった後、ぼくは靖国神社へ出かけた。今年になって何回目かな。五、六回は来ているはずである。参拝するためではない。いわば下見である。対米戦争の開戦記念日にあたる十二月八日、ぼくたちは靖国をからませた形で「主権在民!共同アピールの会」という会の立ち上げを計画しており、靖国の様子をちょっと見に来たのである。

 次回に続く