靖国に合祀された朝鮮半島出身者は二万一千人にのぼる。同じ植民地だった台湾でも約二万八千人が祀られており、やはり合祀の「絶止」を求める要求が高まっている。
「遺族を無視して追悼することは許されない」という李さんに対して、靖国側は「すべての人が合祀を誇りにしている」と答え、「あなたのお父さんは「神」になったのだから、抜くわけにはいかない」と合祀取り下げに応じる気配はない。

韓国から戻った後、ぼくは靖国の遊就館へ足を運んだ。遊就館は「慰霊」と「顕彰」という二つの役割を果たす靖国の思想の流れを詳しく紹介している。

特徴的なのは、戊辰戦争以来、天皇の名の下に戦われた戦争の歴史を数千点の資料で説明しているにもかかわらず、ここには戦争のもたらす「血」の匂いがまったくないことだ。戦争とは「殺し合い」である。戦場で目撃する光景は、頭や手足を吹き飛ばされ、うめき、もだえながら死んでいく兵士や人びとの姿である。そのような血みどろの現実を想起させるものは、一切消し去られている。
いや、正確には「血」を感じさせる仕掛けもないわけではない。それは「大和民族の血」である。いわゆる「民族の血」というものだ。

もうひとつ、遊就館は靖国の真髄は「慰霊」より、「顕彰」にあることを教えている。「国のために命を捧げる純粋な心を讃え、戦没者を神として祀ること」により、天皇の名の下に遂行された数々の戦争を「聖戦」と規定する。「顕彰」することで、靖国は「国民」を戦争に駆り立てる装置としての機能を果たす。戦死者を「英雄」として「顕彰」しなければ、誰も戦争には行きたがらない。

その点に留意すれば、靖国とは別の慰霊施設を建設するという案も靖国問題の本質的な解決とはならない。問題は「国のために戦い、死ぬことは名誉である」という思想であり、「国」に優越する価値を見出せない限り、ぼくらはいつでも「国家」の論理に絡めとられてしまう。
ぼくらは果たして「国家」を超える価値を見つけることができるのだろうか。靖国の社に佇みながら、その答えをぼくは考え続けていたのである。
(月刊「望星」06年2月掲載分---その4)