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【清津駅前にたむろするコチェビたち】(2005年4月/撮影:李ジュン) ASIAPRESS

【清津駅前にたむろするコチェビたち】(2005年4月/撮影:李ジュン) ASIAPRESS

私はなぜ北朝鮮を脱出したのか(15)
例えば、鉄道の“平壌-羅津線”鉄道の場合。
国民たちから平壌市を<守る>ために、平壌の手前100キロメートルの新成川(シンソンチョン.中部朝鮮の駅名)で検閲があり、第1次としてまず連行下車される。

次の順川(スンチョン,西部朝鮮,平壌70キロ手前)で、第2次の連行下車があり、別の独立的な増強取り締まり班が乗車する。
最後に間里(カンリ,平壌郊外,15キロ手前)で行われる第3次取り締まりをパスするか潜り抜けた者だけが平壌に上京できるわけだ。
身震いするほど厳しいこの取り締まり戦闘が終わると、混雑していた列車の定員82人用1車両は、せいぜい10人足らずの平壌通行証所持者だけでガランとして平壌市内の駅に着くのだ。

さらにである。改札口を出ようとすると、また別の通行証確認が息苦しく待っている。
改札では、平壌市民でない“地方人”は恥ずかしくも通行証を改札口の警察に直ちに回収され、暗い駅の地下にある、椅子もない確認口の前に罪人のように追い立てられ、列にならばなくてはならないのだ。

そこには各方面からの列車で到着した地方の人々が数百名が群れ集まり、確認された自分の通行証が返されるのを30分以上待たなければならないのだ。

もちろん幹部や外国人には改札口も確認口も、階級社会らしく特殊に設けられて、専用待合室は結構立派である。
この1995年当時、工場や企業はほとんど閉鎖されていたし、また、出張旅費や食糧券の支給も消滅していて、出張の項目自体が消えていた。
しかし、商売や私生活的な目的で、全国消費の50%以上と、人口の1割が集中している平壌市への出入は相変わらず活発だった。
換言すれば、この平壌旅行者の全員が持っている通行証を発給することが、既得権益層の主要な収入源になっていたのだ。

つまり、`証明書の闇市場゛が登場していたのである。
平壌と国境地域への通行証は1枚当1,000ウォンもした。
ちなみに、当時名目上の公務員平均月給は100ウォン,また一般地方への通行証1枚は50ウォンであった。
平壌は、すでに金のない忠誠分子や貧乏人には閉鎖されていたようなものだった。

さて、このように厳重な平壌市出入の警戒網によって“バルチザン”的行動で将軍様に悲惨な現状を報告に行こうとした忠実な少年団員の99.9%が、間里までの3段階の検閲ですべて引きずり下ろされた。

子供たちの取り締まりに動員される少なくない警察官たちも悲痛な心情を隠せなかった。
平壌に到着した車両から“パルチザン”の潜入が発見された場合、その担当警察官は降車処罰、警察の副業地である農作業組に革命化として回されてしまうのだ。

この時期はというと、護衛局(最高幹部の警護担当局)のような最高の権力機関であっても、勤務する本人分の食糧以外の一切の配給がすべてストップしてしまっていたので、処罰を受けた列車警察官は乗客からの収賄のひもが断絶されてしまうと、扶養する家族を絶望状態に落としてしまうのだ。

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