その一方で、車両の椅子の下や屋根、連結部、ボイラー、小モノいれ、床下の構造物に隠れている幼い少年少女らを探し出し、列車から叩き出す取り締まりは、人間として,しかも潔白な児童にその様に行動するよう忠誠心を助長鼓舞してきた国家の警察官として、心に深いトラウマを彫み込むことになった。

拘束された児童はあまりに幼く、強制労働をさせることもできず、また食糧を調達する方法もないので、集結所送りの対象にもできず、何の連絡も対策もないまま、その駅舎から外に追い払われた。一文もない少年少女らは、怨恨を抱いたまま餓えて、道端にばだはたと倒れていった。
消えていく最後の息吹をやっと保ちながら、忠誠に燃えた少年団員たちは何を考えただろう。

亡国の“抗日児童団”を考えただろうか。
でなければ、戦時後退期の“少年パルチザン”を思い描いただろうか。
それとも母に甘えた日々を思い出しながらその短い人生を終えただろうか。

今もあの少年団たちの倒れた光景を思い出すと、私も胸が痛んでいたたまれなくなる。
こうして、最も核心的な共和国の未来である子供たちは、自分の国の青空の下で、パニックで右往左往する人々の溢れる道端に捨てられたまま、無惨にも、無惨にも死んでいったのであった。
この1995年、このようにして共和国のコッチェビ第1号が生み出されたのである。 (2006/06/01)
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