当時の世相を見ると、1927年7月24日に作家の芥川龍之介が、「唯ぼんやりした不安」の言葉を遺し、36歳で自殺している。
同じ月に岩波文庫の刊行が始まり、9月には宝塚少女歌劇がレビュー「モン・パリ」を初演。12月に日本初の地下鉄(東京の上野・浅草間)が開通し、翌年8月には東京・大阪間で旅客機の飛行が開始した。

1928年7月のアムステルダム・オリンピックでは、陸上と水泳で日本人が初の金メダルを獲得している。同年11月、警視庁はダンスホールへの18歳未満の男女入場禁止の取締り令を実施した。

1929年春、大卒者の就職難が深刻化し、「大学は出たけれど」が流行語になる。同じ頃、寿屋が初の国産、サントリー・ウヰスキーを発売した。
このような時代を背景に、国家中枢では資源局による総動員計画づくりが極秘のうちに、着々と進んでいった。それは1929年7月に浜口雄幸内閣が成立してからも続き、「資源分類表」も整えられる。

当時の大多数の日本人は、自分たちがごく限られた軍人と官僚の手で通し番号付きの「人的資源」、馬や物資と同じ使い捨ての資源と位置づけられているとはまったく知らなかった。

ここに「人的資源」の発想は、日本近現代史のなかにビルトインつまり内蔵されていく。
しかし、さらにそのルーツを知るには、日本陸軍の高級将校らが第1次世界大戦に触発され、国家総力戦体制の研究に取りかかる大正時代にまで遡らなければならない。 ~つづく~
(文中敬称略)

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