しかし、生身の人間から労働力や能力や技術だけを分離して、「資源」として取り出せるわけではない。労働には必ず体も心も伴う。体を動かし、頭を使い、心配りもすれば、人間は誰でも疲れるし、ストレスを感じもする。

人間が「物的資源」と同じように「人的資源」として扱われるとき、身心にかかる負荷は重く、それが病気や怪我、心の病を引き起こし、死に至ることもある。過労死、過労自殺、労災事故、職業病などはその具体的現れだ。

振り返ってみれば、戦後の経済復興と高度経済成長のために生産増強を担った炭鉱では、安全対策よりも利益と効率が優先され、落盤やガス爆発などの事故で多数の死傷者が出た。塵肺の防止対策もなおざりにされて、多くの炭鉱労働者がこの重い病に苦しんできた。
高度経済成長を支えた道路や鉄道のトンネル工事の労働者たちも、やはり塵肺に苦しんできた。

経済繁栄と経済大国化のかげで、過労死、過労自殺、労災事故、職業病などが後を絶たない背景に、人間を手段化し、使い捨てにする「人的資源」の発想があると思われる。

その本質は国家総動員体制の時代と変わってはいない。その言葉を使う人が「人的資源」の歴史を知っているかどうかは別にしても。
「若年の失業、雇用の問題というのは社会的にも経済的にも極めて深刻であり、重要な問題だと思います。......中略......今若いとき、一番いろんなことを学ばなければいけない、職業として身に付けなければいけない時代にそういう機会がないというのは、将来のいわゆる労働人材資源、人的資源という観点から見ても非常に大きな国民経済的な損失になりかねない」
(2004年11月2日、参議院内閣委員会。竹中平蔵内閣府特命担当大臣〔当時〕)

「日本国内で本当に、ニートというのは働いていらっしゃらないわけでありますから、こういう人たちがいる、この存在をどうして労働力化しないのかというようなこともあります。つまり、日本人の人的資源をフル活用しないままに単純労働者を外国から入れるということをどう考えるのか」
(2007年2月19日、衆議院予算委員会。塩崎恭久官房長官〔当時〕)
国会で、北村徳太郎らのような人間尊重の立場から「人的資源」の発想を批判する声が聞かれなくなって久しい。 ~つづく~
(文中敬称略)