2  かつての炭鉱
北朝鮮の炭鉱は、基本的には日本の植民地時代に開発されたものである。特に平安南道各地の炭鉱は良質の無煙炭を生産することで名を馳せ、「内地」(日本)にも大量に運ばれた。

朝鮮民主主義人民共和国成立後、国家に接収された炭鉱はどのように運営されていたのだろうか。游仙炭鉱に六〇年代から二〇年間勤めたリ・サンボン氏が詳細に証言してくれた。
「どこの炭鉱にも、出身成分(階層)の良くない人間が多数配置されていた。日帝時代の地主、財産家の子孫たち、越南者(分断後南朝鮮に渡った者)の家族、国軍捕虜(朝鮮戦争時に捕虜になった韓国軍人)、南朝鮮労働党(注2)系の者、中国出身者、沿海州やサハリン、カザフスタンなどソ連からの帰国者、それに日本からの帰国者だ。

游仙炭鉱には日本の帰国者が五〇世帯いたね。游仙炭鉱は日帝時代の三〇年代に開発された「岩村(いわむら)鉱山游仙炭鉱」で北朝鮮政府が接収したものだ。労働者が三〇〇〇人程の二級企業所(注3)だったが、そのうち一〇〇〇人程が成分のよくない人たちだったと思う。

「六〇年代から七〇年代中頃までは、炭鉱労働者の待遇は良かった。六〇年代の一般企業所の月給が四〇ウォン程度、配給は雑穀と白米混ぜて一日七〇〇グラムだったが、炭鉱では坑の外で働く労働者が五〇〜七〇ウォン、運搬やコンベアー操作をする坑内の軽労働に従事する者が一五〇ウォン、そして危険で重労働の採炭工、掘進工はノルマを達成すると六〇〇ウォンも出た。

当時は農民市場で豚一匹三〇〇ウォンだったから破格だった。職場にある「栄養剤食堂」で労働者に食事が出たが、一食に白米が二〇〇グラム、豚肉のおかずに卵二つ、食用油七〇グラム、砂糖一五〇グラムとキムチが出た。

食糧配給は一〇〇%の白米が一日九〇〇グラム出ていたし、煮炊きと暖房用の石炭も一ヶ月に五〇〇キロもらえた。金日成が「炭鉱労働者を空軍の飛行士のように待遇しなさい」と教示したからだと言っていた。

「私も好待遇が魅力で炭鉱を志願した。また炭鉱に入ると、労働党員への道も開けるのです。でも作業はとてもきついし、落盤事故やガス爆発がちょくちょくあって危険なので、炭鉱に行こうとする人は少なかった。私は坑の最深部で作業する採炭工と掘進工を四年やった。

ある時、新しい炭脈を探すための坑内の発破作業で事故が起こり、私のそばにいた二人が吹き飛ばされて即死した。私も顔と胸と腹に大怪我を負った。こんな危ない仕事していたんでは、自分もいつか命を落とすと思い、医者に賄賂を送って病気ということにしてもらい、坑外の職場に移った。理由がないと坑内職場から出ることができないのだ」。
(つづく)

注1 北朝鮮政府は正確な石炭生産量を公表していない。韓国統計庁の推測値の根拠はよくわからない。
注2 南朝鮮労働党(南労党):日本の植民地支配下で地下活動していた朝鮮共産党が、解放後の一九四六年に左派諸党派を糾合して、米国占領下の南半部の共産政党として結成。しかし弾圧を受けたため朴憲永(パク・ホニョン)ら指導部は北半部に渡り、五〇年に北朝鮮労働党と統合して朝鮮労働党が成立した。朴は副委員長になるが、朝鮮戦争停戦後に米国のスパイとして逮捕処刑された。以降、南労党派はずっとパージの対象とされた。
注3 北朝鮮の国営企業は、その規模によって等級が分かれている。二級企業所までが国が直接管理する大型企業所だ。

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