70年代に日本から北朝鮮に渡った3人の兄。そのうちの一人が病気治療のため、奇跡的に日本への一時帰国を許された。だが、3か月の滞在の予定は、北朝鮮当局の突然の帰国命令で2週間で打ち切られることに。在日コリアンの映画監督ヤン・ヨンヒ(梁英姫)さんが、北朝鮮に通い、兄たちの生活を綴った傑作ドキュメンタリー「ディア・ピョンヤン」「愛しのソナ」に続いて制作したのが、北朝鮮に住む兄の日本滞在を描いた「かぞくのくに」。ヤン監督にとって、祖国北朝鮮とは、帰国事業とは、家族とは。(聞き手 石丸次郎/アジアプレス)

ヤン・ヨンヒ監督 (撮影ナム・ジョンハク/アジアプレス)

ヤン・ヨンヒ監督 (撮影ナム・ジョンハク/アジアプレス)

 

◆40年前、兄たちは北朝鮮に渡った
石丸:ヤンさんはすごい映画を撮り続けてきた。北朝鮮に渡ったお兄さんと家族たちのことを、それこそ人生を賭けて撮っている。8月から全国で公開される3作目の「かぞくのくに」は、99年に病気治療の名目で奇跡的に日本に来ることが許された末のお兄さんの日本「滞在」が題材です。ヤンさんの制作活動と作品を理解するために、お兄さんたちが大阪から北朝鮮に渡った40年前のことを話してください。
ヤン:1971年の11月に、まず二番目のオッパ(兄)と三番目のオッパが行きました。次兄は16歳で大阪朝鮮高校の二年、三兄は14歳で中学三年でした。翌72年に長兄が大学生で帰国しています。

石丸:どういう経緯で帰国したんですか?
ヤン:どっちかというと自分から行くって言ったんです。次兄は建築をやりたいと思っていた。でも日本にいると、焼肉屋か総連の仕事か朝鮮学校の先生か、あるいは同胞がやっている小さな所しか就職がない。建築家になりたいとか、医者になりたいとか、弁護士になりたいとか、企業に就職したいというのは、もうほとんど当時はあり得ない時代でした。「パッチギ」の映画じゃないですけど、勉強できなかったら、ぐれたんでしょうけどね。オッパたちは勉強ができたんです。

石丸:将来の自分の発展は、日本ではなく北朝鮮にあると思ったわけですね。
ヤン:末のオッパは、兄貴が行くんだったらという感じもあって行ったと思います。うちは、アボジ(お父さん)が給料のない総連の活動家だったけど、オモニ(お母さん)が、従業員も使ってミシンを踏んで紳士服を作っていて、オッパたちが北朝鮮に行く直前は、淀屋橋辺りのビルの地下で、本名を隠して、サラリーマン相手のグリル喫茶をやって、すごくうまくいってたんですね。

ぼろ屋だけど家も買って、週末くらいは焼肉も食べて、お兄ちゃんたちはみんなサイクリング車をピカピカに磨いて乗ってました。下のオッパはバイオリンを、真ん中はアコーディオンを習っていたし、当時の在日としては余裕のある生活だったんです。北朝鮮に行くって一度宣言しちゃうと、朝鮮学校の中ではもうヒーローだったみたい。周りには、俺らも行こうかなという友だちも多かった。

なんとなく留学に行くような、「すごいな、向こう行って頑張りや。大きなもの掴みや」みたいな雰囲気があったと思います。それから、やっぱり、「さすがヤン・コンソン(父)さんとこの息子や」と褒められたりもしたと思います。それで行くとなったわけですが、「ほんまに行ってええんかなあ」っていう気持ちだったようですね、やっぱり。

◆送り出す両親の思い
石丸:何度も聞かれていると思いますが、70年代に北朝鮮に帰国するというのは遅いわけですね。59年から62年の間に大体8割強が帰って、その後激減してる。いろんな理由があったんでしょうけど、北朝鮮の暮らしは、朝鮮総連や左派の日本人が宣伝するほどよくないということが分かり始めたというのがあります。

向こうから、「腹が減った」、「モノがないから送って欲しい」という手紙が在日家族のもとに続々と送られてきて、「輝ける社会主義祖国」での暮らしが、実は大変しんどいということが在日社会にも伝わって、「地上の楽園」北朝鮮に帰ろうという熱はいっぺんに醒めてしまった。また、70年前後というのは、在日朝鮮人の中で、経済状況が分化していく時期だったと思います。ずっと最下層に置かれていた朝鮮人の中にも、高度経済成長していく日本社会の中で、努力し頑張っていく人、チャンスを掴んでいく人たちが現れ始めた。

ほとんどが自営業でしたが。また芸能やスポーツの世界に、実力で頭角を現す在日が出現した。在日の暮らしも、仕事が増え、底上げされてきて、意識が「祖国志向」から「定住志向」に変化し始め、北朝鮮の様子をちゃんと見ようというふうになってきた。それをヤンさんのアボジ、オモニが知らなかったはずはないと思うんですよ。

仕送りすればちゃんとやっていけるだろう、待遇もそれなりに良いものを受けられるだろうという自信があったのかもしれない。もちろん、我が子に夢も託したい、祖国建設のために働いてもらいたいという気持ちもあったでしょう。一方で、心配もしていたと思うんですね。帰国事業が始まった10年前とは全然情報量が違う中で、客観的にどんな判断で息子さんを祖国に帰らせたのでしょうか。

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