総連幹部だった父・ヤン・コンソンさんと中学生のヤン・ヨンヒ監督。冬の家族旅行。

ヤン:客観的にという点ではね、やっぱり、アボジは熱血活動家でもあったと思うんです。「北朝鮮はほんまはこうやで」という情報って、結局、今活動している自分たちが信じているものを否定する情報じゃないですか。それを両親はどこまで受け入れてたのかなって思います。親を責める訳じゃないですけれども、アボシ、晩年には現実をどんどん分かりつつも、「祖国やから信じんねん」みたいなところが強い親だったんでね。複雑だったとは思いますね。

石丸:当時を知らない日本人としての勝手な想像ですが、自分の息子にとって、進路として、日本に残ることと朝鮮に渡ることとでは、どっちがいいのかということは、当然お考えになったと思うんです。単に、食べ物すら不自由だという部分はなんとかなるだろうと。進路として考えられて、迷って迷って選択されたのではないかなと、ちょっと想像ですけれども。
ヤン:一人でぽつんと行くのではなくて、兄弟一緒に行ってなんかあったら助け合えるだろうという考えもあったでしょう。それに、当時はね、うちの母の妹も弟も帰国してるし、母のアボジもオモニも行っているんですよ。皆、済州島の人なんですけど。うちのアボジの兄弟の子供たちもみんな行っているし、結構帰国した親戚が多かったんです。

石丸:まあ未知の世界ではないなっていう安心感はあったんでしょうね。
ヤン:そうですね。まあ言わば一人じゃないから、助け合って、そこで自分たちの道を見つけるだろうっていう期待というか望みがあったのかもしれないですね。もっと言うと、両親は、子供たちだけじゃなく自分の兄弟とかそういう近い親戚がいっぱい行ってるから、そこを信じるしかないっていうところで、行かせた後も頑張ったんだろうなと思うんです。
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「北朝鮮と私、私の家族」 ヤン・ヨンヒ監督インタビュー 一覧

 

※在日朝鮮人の北朝鮮帰国事業
1959年から1984年までに9万3000人あまりの在日朝鮮人と日本人家族が、日朝赤十字社間で結ばれた帰還協定に基づいて北朝鮮に永住帰国した。その数は当時の在日朝鮮人の7.5人に1人に及んだ。背景には、日本社会の厳しい朝鮮人差別と貧困があったこと、南北朝鮮の対立下、社会主義の優越性を誇示・宣伝するために、北朝鮮政府と在日朝鮮総連が、北朝鮮を「地上の楽園」と宣伝して、積極的に在日の帰国を組織したことがある。朝鮮人を祖国に帰すのは人道的措置だとして、自民党から共産党までのほぼすべての政党、地方自治体、労組、知識人、マスメディアも積極的にこれを支援した。
ヤン・ヨンヒ(梁英姫)
映画監督。64年11月11日大阪市生まれ。在日コリアン2世。済州島出身の父は大阪の朝鮮総連幹部を務めた。朝鮮大学校を卒業後、大阪朝鮮高校の教師、劇団女優を経てラジオパーソナリティーに。95年から映像作家として「What Is ちまちょごり?」「揺れる心」「キャメラを持ったコモ」などを制作、NHKなどに発表。97年から渡米、6年間NYで過ごす。ニュースクール大学大学院メディア学科にて修士号取得。日本に住む両親と北朝鮮に渡った兄の家族を追ったドキュメンタリー映画「ディア・ピョンヤン」(05年)、「愛しのソナ」(09年)を監督。著書に『ディア・ピョンヤン―家族は離れたらアカンのや』(アートン新社・06年)、『北朝鮮で兄(オッパ)は死んだ』(聴き手 佐高信・七つ森書館・09年)、『兄―かぞくのくに』(小学館・2012年)。
「ディア・ピョンヤン」で、山形国際ドキュメンタリー映画祭アジア千波万波部門特別賞、ベルリン国際映画祭フォーラム部門最優秀アジア映画賞(NETPAC賞)、サンダンス映画祭審査員特別賞、第8回スペイン・バルセロナ アジア映画祭最優秀デジタル映画賞(D-CINEMAAWARD)を受賞。
「かぞくのくに」で、ベルリン国際映画祭アートシアター連盟賞、パリ映画祭人気ブロガー推薦作品賞を受賞、他現在も各国の映画祭から招待が続いている。

 

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