国威発揚と徹底した指導者礼賛が「アリラン」の演出の要だ。写真は「アリラン」と称する前の1995年の集団体操。撮影 石丸次郎

国威発揚と徹底した指導者礼賛が「アリラン」の演出の要だ。写真は「アリラン」と称する前の1995年の集団体操。撮影 石丸次郎

 

◇金親子の「顔」の一部になる学生たち
「背景台(マスゲーム)」に動員される学生たちの中でも、特に金親子の「顔」部分を担当する学生は別途に選抜される。思想や生活態度が良好でなければならないからだ。選ばれた学生は公演期間中は専用の車両で移動するなど特別扱いを受けることになる。

金父子の「顔」担当の彼らは、その役割の重要性から、いかなる場合にも訓練を抜けてはならず、公演期間中は、競技場を離れることができない。
03年か04年だっただろうか、公演初日にマスゲームの顔部分を担当する学生の母が癌で他界する出来事があった。しかし生徒は母の最期を看取ることもできず、公演に参加せざるを得なかった。「アリラン」実行委員会ではこの学生を評価する報告を党に提出し、表彰を受けられるようにしたというが、実際にどうなったかについては分からない。

また、運搬中だった大きな機材が腹部に落下した学生が痛みに耐え、最後まで公演を行ったこともあった(参加者が直接機材を運ぶことは日常茶飯事で、公演当日には人と機材が頻繁に移動するため事故が多かった)。公演後、気絶した学生は病院に担ぎ込まれたが腸が破裂しており死亡してしまった。実行委員会は彼にも「金日成青年栄誉賞」を授与した。

このような、訓練や公演への残酷なまでの動員はよく知られているため、経済的に余裕のある家庭では、賄賂を使って参加メンバーから外させることで子どもを守ることができた。しかし、出身成分が低く、貧しい家の子どもたちは参加せざるを得ないのである。

もちろん、親たちの不満も大きい。「子どもたちに勉強もさせず、訓練にだけ動員させてどうするつもりだ」、「子どもたちの栄養状態は二の次になっている。毎日お弁当を持たせるのも経済的に苦しい」、「指導教員が子どもたちを酷使しすぎている」などの声は多かった。しかし、公演への参加は「統治者」への忠誠心を測るものと見なされていたため、親といえども大っぴらに不満不平をぶつけることができず、涙ながらに我が子を見守るほかになかった。

◇「アリラン」公演の正しい見方
これ以外にも、「アリラン」公演にまつわる非人権的な問題を挙げればきりが無い。これから同公演を見ようと思っている人達は、「どうやったら幼い子どもをはじめとする参加者たちが、まるで機械のように精巧に動けるのか」というような、外見だけに捉われてはいけない。
初歩的な感情・生理表現さえも踏みにじられ、汗と涙とともに演じざるを得ない参加者たちの内幕。さらに、人間を機械のように改造することのできる「世界で例の無い強制力」があってこその公演だということを、心に刻んで見る必要がある。
その昔、日本帝国主義者により国を奪い取られた悲しみと鬱憤が、朝鮮民族に民謡「アリラン」を口ずさませたとすれば、今日の朝鮮では三代に及ぶ独裁政治によって金氏一族の奴隷に転落した人民が、「アリラン」を歌わされているのである。その心情はいかなるものか、世界が真に注目すべきはこの点である。(ペク・チャンリョン)
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