◆命がけの食事運び
「最初は外科、内科、伝染病棟と三つだったのですが、米軍上陸後は間に合わず、第一外科、第二外科、第三外科と全て外科になりました。私は下級生2 人と同級生の4人で配置されました。下級生には重労働や危険な仕事は可哀想過ぎて、死体運びや飯上げという兵隊さんたちへの食事の運搬も私たち2人がやりました」

飯上げは兵隊の任務だったが、24号壕は学徒が担当。野戦病院の炊事場は小高い山を二つ越えた向こうの喜屋武という集落にあり、砲弾が飛び交う中、片道2時間もかかる命がけの労働だった。梅雨に入ると斜面はぬかるみ、さらに新川さんらを苦しめた。
「夜の7時ごろ、米軍の攻撃が静かになったのを見計らっていくのです。米軍は勝ち戦ですから、食事の後にハーモニカを吹いたりダンスしたりしているんですよ」
(つづく)

【注:ひめゆり学徒隊】
米軍の沖縄上陸に備えて日本軍が組織した学徒隊の一つ。沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒で構成され、傷病兵の看護などにあたった。戦局が悪化すると日本軍とともに南部に撤退、6月18日には解散命令が出た。引率の教員を含む240人のうち、教員13人、生徒123人の計136人が犠牲に。このうち100人以上が解散後数日で亡くなった。戦後、総称して「ひめゆり学徒隊」と呼ばれるように。沖縄戦では、県内の男女学生約2000人が鉄血勤皇隊や学徒看護隊に動員され、約半数が死亡した。
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