◇ 5万部発行の地方紙のストリンガーに。

いわゆる日刊紙、つまり日々輪転機が回っているような新聞社で私が働き始めたのは、それから半年後のことだ。私が留学していたマーシャル大学はウエ スト・バージニア州のハンティントンという街にあったが、そこを拠点にしているヘラルド・ディスパッチ紙がそれだ。その新聞は州で2番目に大きな新聞だ が、それでも発行部数は5万部ほどだ。

大学の学生新聞に掲載された私のフォトエッセイを見た同紙のフォト・エディターが電話をくれ、私はストリンガーのカメラマンとして出入りするようになった。出来高払いで雇われるもので、いわばアルバイトである。
週末のイベント取材などを重ねるうちに、写真記者としてある程度の経験を積むことができた。しかし、大学院を修了する頃になっても、私は就職先を見 つけることができなかった。米国の記者職は写真記者を含めて、給与が低い割に人気が高い。競争率は高く、ひとつの空きに40人から50人の応募があるのは 当たり前だ。

ヘラルド・ディスパッチ紙の若い優秀な記者が、大学卒業時に200社に応募して「やっとひとつ決まったからここに来た」とこぼしていたのを思い出す。私も写真記者を募集している全米の新聞社に作品集を送り続けたが、実力不足もあり、返事すらもらえない状態が続いていた。

そうしたことから、卒業後もヘラルド・ディスパッチ紙で働き続けた。その契約も切れる頃、ユタ州のローガンという町にある新聞社から電話があり、私 が応募していた正社員ではなく、インターンとしてなら雇ってもいいと連絡が入った。たった3か月の契約だったが、他に選ぶ道はなかった。さっそくハンティ ントンのアパートを引き払い、1800マイル西にあるローガンという街に向かった。1995年の1月、阪神・淡路大震災が起こる10日前のことだった。  (つづく

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[執筆者]岩部高明(いわぶ・たかあき)

1968年、横浜市生まれ。1991年、日本大学を卒業後に渡米。大学院でジャーナリズムを学びアメリカの新聞社に 写真記者として勤務。Society of Newspaper Designより銀賞、ニューヨークAPよりベスト・オブ・ザ・ショウ、サウス・カロライナ州フォトグラファー・オブ・ザ・イヤーなど報道写真の受賞歴多 数。 2013年6月に日本に帰国し、ジャーナリストとして活動中。