「空襲・戦災を記録する会全国連絡会議」仙台大会が去る8月27、28の両日、仙台市青葉区の市戦災復興記念館で開かれた。全国各地で空襲体験を語り継ぐ活動をしている市民団体や研究者ら150人が 参加し、大会テーマである「防空壕と防空政策」について情報を交換し合った。 (新聞うずみ火/矢野宏)

8月27、28日、仙台市で行われた「空襲・戦災を記録する会全国連絡会議」、講演会の様子

8月27、28日、仙台市で行われた「空襲・戦災を記録する会全国連絡会議」、講演会の様子

 

◆中小都市の空襲、体験者語る

初日は、全国連絡会議の工藤洋三事務局長が「米軍資料から見た日本本土空襲と仙台」と題して講演。工藤さんは、焼夷弾を使った空襲の目的について、「単に建物を焼き払うということではなく、市街地に制御不能な大火を発生させることだった」と述べ、「米軍は日本の都市を調べ、それぞれの都市の燃えやすいところを指標とした『焼夷区画』を設定して いた」と語った。

1945年3月に始まった大都市空襲で東京や大阪などが壊滅状態になると、6月中旬から攻撃対象は中小都市へ広がる。仙台への空襲は45年7月10日。堺、岐阜、和歌山とともに、7回目の中小都市空襲として行われた。

123機のB29爆撃機が次々に焼夷弾を投下し、犠牲者は1064人を数える。仙台市街地の27パーセントが焼失されたが、同じ日に空襲した堺44パーセント、和歌山52.5パーセント、岐阜74パーセントに比べて低かったため、米軍は仙台への再空襲を計画していたという。

16歳の時に仙台空襲を体験した伊達忠敏さん(87)は、阿鼻叫喚の中を逃げまどった体験を語った。「焼夷弾が降ってきて身を伏せた時、左足に電気のしびれのようなものを感じるとともに、頭から油の固まりのようなものをかぶった。左足に触れると、鉄片が突き刺さっていた。起き上がって歩こうとしてつまずき倒れた。よく見ると、女性の死体だった。私の2メートルほど先で焼夷弾の直撃を受けたらしく、首がなくなっていた。私がかぶった油のようなものは、彼女の血と焼夷弾の油脂だった」

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