◆防空壕の安全神話、すでに崩れていた可能性も

最終日の翌28日は、「防空壕と防空政策」について、全国各地の団体や研究者から報告があった。八王子市史編集専門部会の斎藤勉さんは、45年8月1、2日の「第13回中小都市空襲」 で八王子、富山、長岡、水戸の4都市に627機のB29が来襲し、5127トンの焼夷弾を投下したことに触れ、「当時、人口7万7000人の八王子で犠牲者は445人だったのに対し、人口7万4000人の長岡で1476人。人口17万人だった富山では2704人。人口に対する死没者の比率は、八王子が0.57に対して、 長岡が1.98、富山が1.6」と報告し、「東京大空襲のあと、八王子には多くの罹災者が避難してきた。市民は避難者から『防空壕は役に立たない』と聞いたらしく、防空壕に入れば安全という『防空壕神話』はなかったのでは」と語った。

「富山大空襲を語り継ぐ会」の和田雄二郎さんも「犠牲者の半分のうち、6、7割が防空壕で亡くなった」と述べたあと、こう主張した。

「当時の日本政府と軍部は、空襲時であっても『退去禁止』『初期消火』を義務づけ、さらには『防空壕を作れ、防空壕に入れ』などと命じた。市街地全体が火の海になった中では、初期消火もどんな防空壕も何の役にも立たなかった。お上の言うがままに防空壕の安全を信じ、そこに入ったために命を失った市民が多くいたことは明らかだ」。

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