体験を語る東浦さん(写真右端)(6月常宣寺で撮影・矢野宏)

放置された身元不明の遺体は千数百体あまり。淀川の河川敷に運ばれて荼毘に付されたが、堤防の上には「千人塚」の碑と平和地蔵尊がある。東浦さんの父親が自宅の庭石に「千人つか」と刻んでもらい、敗戦の翌年から慰霊法要を営んできた。父親の死後、遺志を受け継いだ東浦さんが私財を投じて続けている。

「私も90歳になり、例年通りの慰霊法要を執り行うことがいつまでできるかわかりません」と東浦さんは語り、こう言い添えた。「それでも命ある限り、大阪で起きた戦争の悲劇を後世に人たちに伝えていきたいと思っています」

また、同日、豊中市で「みんなで伝える豊中空襲~戦争を語り継ぐ集い」が開かれ、空襲体験者ら50人が参加した。主催は「豊中に平和と人権に関する資料館を求める会」。

豊中市は1945年6月から7月にかけ、6回にわたって空襲を受け、579人が亡くなった。なかでも最も被害が大きかったのが6月7日の大空襲だった。

体験者の仲井嘉廣さん(89)や奈木進さん(84)らが住宅地や市南部の工場地帯に1トン爆弾や焼夷弾が投下されたことを証言。戦時中、戦闘機の部品をつくっていた三国金属も空爆され、勤労動員中の豊中中学(現豊中高)の教師1人と生徒8人、金蘭会高等女学校の生徒6人が亡くなったという。資料館を求める会の山東健さんは「戦争を二度と繰り返さないためにも、消えゆく体験者の記憶を記録に残していきたい」と語った。