戦後76年の「沖縄慰霊の日」は雨模様。晴れ間を縫って、大勢の遺族が平和の礎に参拝する姿が見られた。(6月23日、沖縄県糸満市摩文仁で撮影・新聞うずみ火)

◆太平洋戦争末期、日本兵が沖縄住民35人を殺害

76年前の沖縄戦で、非戦闘員である住民は米軍だけでなく日本軍にも生命を脅かされた。壕追い出し、食料強奪、「自決」強要、虐殺――。 1945年5月12日、沖縄県北部の大宜味村渡野喜屋(おおぎみそん・とのきや)で35人が日本軍に殺される事件が起きた。兵庫県尼崎市の仲村元一さん(76)は生後3か月で事件に遭遇、母、美代さん(2017年5月、99歳で死去)から「平和のバトン」を引き継ぎ「戦争は人間を残酷にする。だから、どんな戦争もしてはならない」と訴える。 (矢野宏、栗原佳子/新聞うずみ火

◆避難中、米軍に捕まった仲村さんの家族

母からバトンを受け継ぎ「渡野喜屋事件」について語る中村元一さん(5月30日、大阪市北区で撮影・新聞うずみ火)

仲村さんは那覇市に生まれ育ち、高校卒業後、兵庫県で就職した。生家は理髪店で、祖父、仁王さんと父、元康さんが親子で営んでいた。

44年10月、米軍が南西諸島全域を無差別爆撃した「十・十空襲」で店舗兼住宅は焼失。母の美代さんは大きなお腹を抱えて懸命に逃げ延び、45年2月、仲村さんを出産した。4月1日の米軍上陸直前、親族9人で本島北部(やんばる)へ避難。5月に入り東海岸の東村平良で米軍に捕まった。

他の避難民とともにジープから降ろされた場所が西海岸の渡野喜屋(現在の白浜地区)だった。集落の住民は山中に避難しており、約90人が民家に分散して収容された。米軍は食料を配給するため、収容者の班長に当時57歳の祖父、仁王さんを指名した。

◆「貴様ら、敵の捕虜になり下がりやがって」避難民を襲った日本兵たち

事件が起きたのは渡野喜屋に着いて3日目の深夜だった。沖縄県史(1974年刊)に収録された美代さんの証言を中心に再現する。

友軍(日本軍)だ。開けろ」。約10人の日本兵が集落を襲撃した。

俺たちは山の中で何も食うものがないのに、お前たちはこんないいものを食っているのか」などと言い、仁王さんら約7人の男性を後ろ手に縛り連れ去った。女性や子供たちをロープで数珠つなぎにし、海岸に引っ立てて4列に座らせた。

班長の家族は前に出ろ」と命じられ、美代さんらは最前列に座った。
姉さん、みんな殺すのだろうか」 「友軍だから大丈夫」。
美代さんは隣り合わせた14歳の義弟とそんなやりとりをした。
貴様ら、敵の捕虜になり下がりやがって。それでも日本人か」と罵声が飛んだ。「1,2,3」という号令とともに、前に並んだ日本兵が手りゅう弾を投げこんだ。

美代さんはとっさに身を伏せ「ねんねこ」を頭に被った。元一さんを抱えていたため捕縛を免れていた。手りゅう弾が頭上をかすめ、「ねんねこ」が裂けた。
振り返ると、人々が声もなく倒れている。みなこと切れていた。

朝、米軍が遺体を収容、けが人を病院に運んだ。米軍資料によれば死者35人、けが人15人。残りは別の収容先への移動が決まった。美代さんが民家に荷物を取りに戻ると、食料や毛布全てが持ち去られた後だった。隣の家では、40歳ぐらいの男性が柱に縛られたまま、喉を短刀で突き刺され死亡していた。
仲村さんの親族は4人が亡くなり、祖父、仁王さんは帰ってこなかった。
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