「激しい住民虐殺があった、ウクライナの首都キーウ近郊の街ブチャ。2月24日以前、ここは確かに平和な街だった」(4月5日・綿井健陽撮影)

◆「戦争なんかしたくなかった」

4月21日付けの朝日新聞で、こんな記事を読んだ。

ロシア軍がキエフ郊外のある村を占領した。兵士たちは、すでに主が避難した空き家で寝泊まりする。母の介護のために村にとどまったあるパン工場職員の隣家には、シベリア出身らしい若いロシア兵2人が入った。

彼らは「戦争なんかしたくなかった」とこぼしたそうだ。

職員は「あなたたちは若すぎる。早く引き揚げて、別の人生を歩んだ方がいい」と語りかけ、食事をつくってやったりした。2人は撤退にあたって何も盗まなかったという。だが同じ村の別の地区では住民の殺害やレイプが行われ、死者・行方不明者は53人に上った。

私はこのエピソードから、80年前に死んだ一人の日本の若者のことを思い出した。

北川省吾さんという人だ。山村基毅『戦争拒否 11人の日本人』(晶文社、1987年)という本には、中国服を着て、俳優の大泉洋にそっくりな風貌に、どこかおどけた気配を漂わせて立つ彼の写真が載っている。彼は徴兵されて中国の戦地に送られたが、一発も銃を撃たないことを決めて、それを貫いた。そして8か月後に、お骨になって故郷に帰ってきた。23歳だった。

◆銃を撃たないと決めた日本兵

北川さんは新潟県柏崎市に生まれ、京都大学で聴講生(正規でない学生)として宗教哲学を学んでいた。宮沢賢治を愛読し、アリや亀といった小動物をいつまでも飽きずに眺めている、物静かな若者だったという。

そんな彼に召集令状が届いたのは1937年9月のことだ。翌月には、輜重兵第二連隊第六中隊に属する一等兵として、中国の地を踏んでいる。彼の部隊は奥深くへと行軍を続けた。

「戦地に来てまだ一発の弾も撃たない人が居るとしたら、それは叔父さんだけだろう」

まだ幼い甥と姪に送った手紙のなかで、彼はそう書いている。「僕こそ、うんと憎い憎い敵を打ち倒して、一日も早く平和の日を呼び戻したいと決心して出かけて来たのだが、どうしてかうも見つからないのだらう。この分ではもう何処まで行かうと、決して見つかりはすまいといふやうな気さへする」

中国まで銃を担いでやって来たのに、「東洋平和」を破壊していると聞いていた「憎い敵」は、そこにいなかった。中国人は私たちの「憎い敵」ではない。中国に殺すべき「憎い敵」はいない――彼は甥にそう伝えたかったのだ。そうして彼は、勇ましい戦いではなく、村人や子どもたちと遊んだ話などを書き綴った。「この次には『チンティ』という可愛らしい子供の話を書かう」。

だが日中戦争とは、日本軍による侵略戦争である。その日本軍の兵士であるということは、決してのどかな経験ではない。子どもたちへの手紙には書かなかったその実相を、彼は自らの日記に、はっきりと書き残している。

「西南という部落に宿営。婆をクリークに×り、赤子をつづらごと厳霜の道に××××、使役の若者が歩けぬとて××して了(しま)ふ」「××、××、××が享楽半分に行はれている」「戦争は疑問だ」

地元紙に掲載された際につけられた××という伏字の中身は想像がつく。殺人と略奪。いや、それだけではなかっただろう。彼の周囲の兵士たちは、そうした行為を「享楽半分」に行っていた。

彼はそれに加わらなかったが、止めることもしなかった。彼自身は確かに村人たちと穏やかに交流していたが、別のところでは彼の仲間たちが村人を銃で脅して略奪に励んでいた。宮沢賢治を愛する彼の心は次第にむしばまれていく。
「僕は不感症である。それらが足の裏に出た豆程にも気にかからぬのだ」

この苦しみを「解決」する希望はどこにあるのか。彼はいつの時点からか、それを見つけつつあった。そしてそれを、一つの詩に託して日記に書き記している。

「僕は僕のお骨を愛する/(略)/僕は一つの解決を射止めて、気軽に両手を振つて来た。/この嬉しさうな白木の柩(ひつぎ)の中で、赤ん坊のやうに喚き立てている、/僕の声を聴いて呉れ給へ」

1938年5月、彼は徐州作戦のなかで流れ弾に当たって「戦死」し、望み通りに、白木の箱に収められて柏崎に帰っていった。

◆日本の若者を「侵略軍」兵士にしたくない

言うまでもなく、侵略戦争で最も苦しめられるのは侵略された国の人びとである。家を焼かれ、村を焼かれ、家族を奪われ、尊厳を奪われ、理不尽に殺される。ウクライナ侵攻の報道を通じて、私たちは今、そんな侵略戦争の現実を、毎日のように見せられている。

だが、直接の加害者となる侵略軍の兵士たちにとっても、それが過酷な経験であることは間違いない。

今回だけではない。ベトナムやイラクに送られた米軍兵士。アフガニスタンに侵攻したソ連軍の兵士たち。彼らは、普通の人々が暮らす町や村に押し入り、普通の人々に銃を向け、時にその命を奪う経験をした。彼らの中に自責の念に苦しむ人々がいたことは、さまざまな記録に残されている。ベトナムやアフガンからの帰還兵の苦しみを描いた本や映画が、どれほど多く作られて来たことだろうか。

日本軍も例外ではない。中国の村で女性や子どもたちをまとめて手榴弾で殺した直後に精神疾患を発症し、帰国後は昼間から酒におぼれ、亡くなるまで入退院を繰り返したという人の記事を読んだことがある。村を焼いた後で、ひとり生き残った幼児を射殺したことに苦しみ、生涯、子どもに近づけなくなった人の話も読んだことがある。

侵略軍の兵士であるというのは、そういうことなのだ。いかなる美名を掲げようが、侵略とは、未来のある若者たちにそのような経験をさせることなのである。

私が自衛隊の海外派兵に反対し、海外派兵を可能にする憲法改正に反対するのも、今、ロシアの兵士たちがしているような経験を日本の若者たちにさせたくないからだ。

まさかと思うだろうか。だがもし、日本が2003年の時点で憲法9条を改正していたら、自衛隊はフル装備でイラク戦争に「参戦」し、米軍が行ったように深夜に民家を家探しし、怪しいと決めつけた車に銃撃を加えて丸腰の家族を殺害していたかもしれないのだ。私は日本の若者たちに、二度とそんな経験をさせたくない。

「戦争なんかしたくなかった」という冒頭の記事の2人は、今も無事だろうか。どうか、自らの魂を殺すような罪悪に手を染めないままで、懐かしいロシアの故郷に帰り着いてほしいと願っている。

加藤直樹(かとう・なおき)
著述家。1967年東京都生まれ。出版社勤務を経て現在、編集者、ノンフィクション作家。『九月、東京の路上で~1923年関東大震災ジェノサイドの残響』(ころから)が話題に。近著に『謀叛の児 宮崎滔天の「世界革命」』(河出書房新社)。

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