◆30代後半から生じた異変
両親は製材所と襖製作所を再開し、永淑さんは芝居と音楽に夢中の学生時代を過ごした。
しかし次第に、一家は北朝鮮への帰国事業の渦に巻き込まれていく。1960年、五兄と長女、永淑さんを除いた6兄弟と両親が帰国。明達さんは朝鮮人女性と結婚していた。帰国する意思は毛頭なかった永淑さんは、北朝鮮から父危篤の知らせを聞き一転、2年後に帰国した。
永淑さんは、中国との国境沿いに位置する平安北道(ピョンアンブクト)新義州(シニジュ)に配置された。明達さんも同じ新義州市内に住み、楽園機械連合企業所に勤めた。だが、30代後半から異変が生じたという。
潤美さんは、伯父の姿をこう語る。「とても賢い人でしたが、言葉につまるような症状が出てきました。年を取るほどひどくなり、まるで脳卒中の後遺症のようでした」
◆思いがけない広島一中同級生からの連絡
1990年代の初盤だったと記憶している。広島一中の同級生から、明達さんへ手紙が届いた。
原爆投下後に市内で共に救出活動をした明達さんが、北朝鮮に行ってからは治療も受けられず、経済的にも苦労しているらしい――。同窓会で話題になると、明達さんのための支援活動が始まったという。
「その頃、明達伯父さんは身の回りのことも手伝いが必要な状況でした。代わりに、母が代筆してやり取りしていたのを覚えています」と潤美さんは話す。
同級生らは、第三国に住む原爆被害者の救済活動をする団体に連絡し、支援を依頼。しかし思うように進まず、同級生らで金を集め、送金をすることとなった。93年頃、200万円近い大金が届いた。潤美さんは経緯をこう記憶している。
フォトジャーナリストの伊藤孝司さんによると、1990年代に北朝鮮政府は国内被爆者の実態調査をしている。95年には被爆者協会が設立され、独自の被爆者手帳を発行した。背景にあったのは、自らも広島で被爆した李実根(リ・シルグン)さんが日本で「在日本朝鮮人被爆者連絡協議会」を立ち上げ、北朝鮮当局に働きかけたからであった。北朝鮮在住の被爆者のほぼ全員が、広島と長崎から帰国事業で渡った在日朝鮮人だと見られる。
永淑さんも潤美さんも、「(明達さんが)政府の調査の対象になった記憶はない」と話す。広島一中の同級生たちは、李実根さんらの運動に触発され、明達さんのことを思い出したのかもしれない。
明達さんは、送金を受けた数年後に北朝鮮で死去した。日本で被爆し、北朝鮮に渡った後も後遺症に苦しんだ在日朝鮮人が存在したこと、そして朝鮮人の学友を忘れずに支援の手を差し伸べた広島の人たちがいたことを、原爆投下から80年の節目に記憶しておきたい。