yanagi080602.jpg【1994年の市長選挙。陳水扁は台湾庶民の救世主と人気を集めた】

[柳本通彦] 台湾海峡天氣晴朗なれど No60 「シンデレラ」 2
陳総統のご長女、その名を仮にユキと呼んでおこう。ユキは1976年の出生。その前年に独裁者蒋介石が亡くなっており、時代は蒋介石から実子蒋経国への政権過渡期であった。

また1971年に国連脱退、1972年に対日国交断絶と、国際的には厳しい時代でもあり、中華思想に基づく民族主義教育が徹底されるという世相もあった。
父は台南の貧農出身、台湾大学法学部出の弁護士、母親は同じく台南ながら富裕な医者の家だったという。
二人は親の反対をおして1975年に結婚し、翌年に長女ユキを産んだことになる。

79年に美麗島事件という言論弾圧事件で多くの活動家が逮捕され、陳水扁が支援の弁護を務めたことから、この一家の運命は大きく転換する。父親が政界への道を歩み始めたのである。ただ政治と言っても、反対党は認められていなかったので、それは「党外運動」と呼ばれる変則的な活動だった。

1985年の台南県知事選挙の直後、母親が交通事故で下半身不随となる。ときに、ユキが9歳。翌86年父親が政治弾圧で入獄。さらに母親が身代わりに国会議員選挙に出馬したりする。多感な少女期、ユキの家は動乱の日々だったのである。

しかも母親の事故は、真相が曖昧にされ、政治テロという噂が広められたりした。
当時、国民党に反対するということは、命がけである。ユキが、学校でどのような疎外感を感じていたか、ある程度想像できるだろう。本人も誰とでも親しく交わるような活発な子ではなかったといわれる。
しかしユキはこつこつと勉学に励み、国内トップの台北第一女子中学(高校)に入学する。さらに医大に進学し、歯科医師となる。

高校卒業が1994年の夏。台北市長選挙の事前運動の真っ最中だった。このころからである。彼女の姿がマスコミの注目を集め出したのは。
彼女は徹底したマスコミ、政治嫌いで知られる。
だからこそ、見合い相手に選んだのは、同じく医師で、当時台湾大学の整形外科にいた青年だった。しかもその両親はともに教育者という、お「堅い」一家だった点に、ユキの心中がしのばれる。彼女は平穏な暮らしを望んだのだ。

この結婚に最初にゴーサインを出したのは、母親である。陳水扁は、車椅子の妻に、まったく頭があがらなかったといわれる。事故と後遺症を、その後の政治活動に利用したという引け目でもあったのか…。まさかとは思う。しかし結局はこのことがこの一家の転落の引き金になっていくのである。
2000年、父親が中華民国の総統に就任。ユキの結婚はその翌年。お姫様の華燭の典を台湾のマスコミは大々的に報道する。一家は栄華の絶頂期にあった。