[柳本通彦] 台湾海峡天氣晴朗なれど No73~「楽生院」

081208_01_yanagi.jpg【日本時代から残る寮。もっとも困難だったのは戦後の一時期。中国からの入所者があふれ、食糧が枯渇し、張さんたちはウサギを買って飢えをしのいだ】

台湾で唯一のハンセン病の公立療養施設「楽生院」の撤去が決まり、昨日水曜日の朝に強制執行がおこなわれた。
台北県新荘市にあるこの施設は、日本時代の昭和五年に落成した。現在もおよそ三百人が入所しており、戦前戦中には、沖縄・八重山の患者たちも漁船に乗って来院したという。

当時、周りにほとんど人家がなかったというが、いまはアパート群がすぐそばまで迫っている。そして台北市中心部と直結する地下鉄工事が始まり、ここに操車場が設けられることになった。四年間も反対運動が展開されたあげく、ついに強制執行の日を迎えたのである。

平屋の病院も施設も日本時代のまま、入所者の多くは半世紀以上塀の外に出ることなく暮らしている高齢者だった。
昭和3年に生まれた張文賓さんは、戦中は嘉義市内の大きな料亭に勤めていたというだけあって日本語も巧みで、NHK大河ドラマのストーリーなど、我々よりもよく知っていたし、ニュースも新聞も丹念にみていた。

081208_02_yanagi.jpg【張文賓さん(右端)と仲間たち。みんなの足は電動の車椅子。背後に聳えるのが新築の施設。彼らは引越しを拒否している】

2006年、ハンセン病補償法の改正によって、日本政府から楽生院の人たちにも一人800万円の補償が実施され、27名の仲間が恩恵を受けたが、張さんは入所が戦後直後であったため、対象にはならなかった。

それでも張さんは悔しそうな顔ひとつ、我々にはみせなかった。史跡の保存や移転反対を叫ぶ人たちが、外部から入り込み、騒がしい日々が続いたが、張さんはいつも坦々として、いつも私に的確な情報を提供してくれた。入所を強制されることなく、「俗世」で働き続けていたら、きっと社会のリーダーになっていたであろう。

張さんたちの「住宅」は、赤レンガや木造の平屋だった。一歩出れば、仲間がいて、集まってはお茶を飲み、食べ物を分け合った。しかし、政府が用意した移転先の立派な高層ビルは、「まるで病院か牢獄のようだ」と張さんは言う。

迫り来る雑踏、そして地下鉄工事。丘の上に立つ「楽生院」だけは青々と緑が茂り、まるで桃源郷のような静けさに包まれていた。そうした別天地にも時代の波は容赦なく押し寄せる。