空襲体験者へのインタビュー

 

◆一瞬で火の海

45年7月9日午後10時半、堺市に空襲警報が発令された。当時19歳だった柴辻英一さん(86)はその様子をこう語る。「ラジオを聞いていると、和歌山方面に敵機来襲と言うので、外へ出て遠くを眺めていたら、和歌山方面の空が真っ赤になりました」一夜にして1300人が犠牲になった和歌山大空襲である。

和歌山との距離は50㌔。ほどなく堺では警報も解除され、ラジオニュースも和歌山を攻撃していたB29が退去したことを伝えた。堺市民の多くが「今夜は大丈夫」と思って寝床に入ろうとした10日午前1時半ごろ、堺の上空に116機のB29が襲来し、焼夷弾攻撃が始まった。

3月、6月と、それまでの堺空襲は、大阪を襲ったB29の一部が波状攻撃したものだったが、この日の空襲は堺そのものがターゲットだった。
郊外から堺の街を眺めていた網佑子さん(75)は「真っ暗な中に畑が広がっていて、その向こうが真っ赤に燃えているんです。それをどきどきしながら見ていました」

当時15歳だった中田美智子さん(82)も「ちょっと高いところから見ていると、焼夷弾が落ちるとワッと燃えているんです。バッと破裂したら火の海です」と振り返る。
最初の焼夷弾は阪堺線「大小路駅」付近に着弾。大浜や竜神、宿院など、街の中心部が火の海と化した。宮川柔(すすむ)さん(78)の自宅は大小路駅の近くで、燃えさかる火の中を逃げたという。

「母と姉が弟を背負い、僕と3人で旧市内をずっと東へ逃げました。今の堺東の銀座街を抜けると、新たなB29が飛んできて油脂爆弾を落としたんです。街が燃えているでしょう。上がハレーションを起こして下が見えない。足元を見たら死体が転がっていて思わず飛びのいたこともありました」

当時14歳だった本城永一郎さん(81)も、「焼夷弾は落ちた瞬間に中の油が沸騰しているから、パッと散った瞬間に火の海になる。川に落ちても一面バーッと燃えるのです。だから、川に逃げていた人も一瞬にして焼けてしまうんですわ」と語った。
この日の空襲は1時間半ほど続いた。779㌧もの焼夷弾が投下され、市街地は火の海となった。避難する途中で焼夷弾の直撃を受けて倒れる人、逃げ場を失って猛火に包まれる人など、悲惨な最期を遂げる市民も少なくなかった。この空襲で1860人が亡くなり、7万人が罹災した。

毎月行われている戦災無縁地蔵尊での慰霊祭

 

奴井(ぬい)利一郎さん(70)は母と2人の姉を失い、自身も大けがを負った。奴井さんは当時3歳。その日の未明、空襲警報が発令され、奴井さんら一家8人は町内の防空壕へ逃げ込んだ。そこに焼夷弾が直撃し、入口が燃え上がった。母は奴井さんを抱いて火の中をくぐって全身大やけどを負い、奴井さんも身体の左半身が焼けただれ、焼夷弾の破片が腰に突き刺さっていた。奴井さんは九死に一生を得たが、8歳になるすぐ上の姉は即死、母も6日後に力尽きた。
「母ともっと話したかったし、愛情がもっとほしかった。今でも無念でなりません......」
(続く)
矢野宏(新聞うずみ火)