戦没船員の碑の前の銅像。戦没船員の受難を表現している。撮影 吉田敏浩。

戦没船員の碑の前の銅像。戦没船員の受難を表現している。撮影 吉田敏浩。

 

◆戦争の日々を生き延びた元徴用船員の思い

興津丸が米軍潜水艦の魚雷を受けて沈没した直後の光景を、真田良〔さなだまこと〕さんは声を絞るようにしてこう語りました。

「海に投げ出された私は、波間にもがきながらもやっと、引っくりかえった救命艇を仲間と一緒に起こして這いあがりました。海面に漂う血だらけの船員 や土木作業員たちを数人ずつ助けては、護衛の駆潜艇に移しました。興津丸に積んでいた材木が散らばって浮き、それにつかまったりして漂っているのです」

「1月26日の朝から夕方まで救助を続けましたが、救命艇が1艘では限りがあります。敵の潜水艦が浮上する恐れがあったので、途中で涙をのんでやめ ざるをえませんでした......。結局、60人ほどいた乗組員のうち20数人、土木作業員では70~80人しか助からなかったのです」

かろうじて生き残った真田さんたちは、駆潜艇でポナペ島に運ばれ、トラック島を経由して日本に帰り着きました。当時はもう徴用船員が乗り組める輸送船の数は大幅に減っていたといいます。

その年1944年(昭和19年)の春から翌年8月の敗戦まで、真田さんは貴船丸の1等航海士として、室蘭から新潟へ、銃弾の原料となる銑鉄を積んでピストン輸送の任務についたのでした。

当時、アメリカ軍は日本の港湾機能を封鎖するため、各地の港にB-29爆撃機で機雷を投下敷設していました。

敗戦の直前、貴船丸は新潟港で、日本海軍掃海艇による機雷掃海後にもかかわらず触雷し、船体が二つに折れて沈没しました。乗組員数人が死亡しましたが、真田さんはここでも命拾いをして、戦争の日々を生き延びたのでした。

戦火の海に消えていった6万人をこえる戦没船員の歴史を無にしてはならない。それが真田さんの強い思いです。

「興津丸沈没の、あの凄惨な光景を思い出すと涙が出てきますね......」と、真田さんは言葉を途切らせ、そしてこう語り継ぎました。

「私らは子どもの時から、お国のために死ねと教え込まれて、船で軍隊や武器を運ばされましたが、戦後は自分の生き方は自分で選べる人間的な時代に変わったわけでしょう。だから、船乗りは絶対に軍隊や武器を運んではなりませんね」

「後輩たちには絶対に私らと同じような目にはあわないでほしい、と祈る気持ちでいっぱいです」