豪雪に見舞われたこの日も、紀夫さん(右端)と仲間は、がれきの中から汐凪さんを捜し続けた。(2014年2月8日 大熊町熊川海岸にて撮影:尾崎孝史)

 

◆なぜ汐凪は犠牲になったのか、自問の日々

紀夫さんが町に戻れたのは、震災から3カ月が過ぎた6月。自衛隊による捜索に立ち会うためだった。同行者が持参した線量計の値は、毎時40マイクロシーベルト前後を示していた。

その後、年に数回のみ立ち入りが許される一時帰宅の制度が始まる。一時帰宅が許された日、紀夫さんは防護服で全身を覆い、一人で海岸のがれきを払いのけたり、テトラポッドの間をのぞき込むような捜索を続けた。

猛暑の中、自宅の周りに生い茂った草木を、筆者と二人で刈り取ったこともある。かつて120軒の家族が暮らしを営んでいた熊川地区。何一つ動くものもない無人の荒野を前に、意識がくらみそうになった。紀夫さんと私は津波で欄干の一部が破壊された熊川の橋に座り込み、海をながめながら吹き出す汗をぬぐった。

孤独にも見える捜索活動。生き残った長女を被曝させたくないと避難先に選んだ長野県からは450キロメートル、車で片道6時間以上もかかる。シングルファーザーとして慣れない家事をこなしながら、一人捜索を続けるのは大変なことだ。紀夫さんを現場へと駆り立てたものは何だったのか。震災直後の思いを記した文章に、胸のうちが綴られている。

どうして汐凪は犠牲になったのだろう? 長女の舞雪を学校に残して行ったにもかかわらず、なぜ私の父は汐凪を自宅へ連れ帰ってしまったのだろう? 私は津波も見てはいないし、家族が流される瞬間も知りません。家族が犠牲になったという実感がないのです。突然いなくなったという感じでしょうか。
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