彼らの間では、いまもある程度その話は信じられているといえるし、信じていなければ、陛下(日本)のために戦った自らおよび同胞の青春が浮かばれないということがある。強大な異民族の支配下に生まれ育った人びとのそうした境遇に思いをはせれば、彼らの「気持ち」を「靖国肯定論」に利用することの残酷さに気づくであろう。

高金素梅たちは、同胞の霊を返せ、と要求している。靖国神社はそれを拒否した。一度神様になった人は永遠に神様なのだという建前である。
そもそもこの要求自体が国家の作ったトリックにのっかった議論である。こういうことが繰り返されてうちに、ほんとうにあそこに兵隊の霊が集まっているかのような錯覚が定着しかねない。

小泉さんがその政治生命を縮め、国運を傾けてまでこだわった靖国参拝は、半ば眠っていたトリックを21世紀に甦らせるねらいがあったといえよう。高金素梅のようにその演出の小道具のような人物まで現れた。おかげで、そのねらいは不気味に着実に実現しているのでないか。

高金素梅をどう扱うか。無視し続けておくわけにはいかない理由はほかにもある。彼女が次期総統の可能性が高い馬英九のブレーンであるからだ。馬英九の口から発せられる原住民史にかかわる発言の大半は高金素梅の受け売りである。

それは「日本人は原住民を食った」式の安直なものが多いが、馬英九が当選すれば高金素梅は原住民政策の要職につく可能性がある。中国人は四千年間、王朝が変わるたびに歴史をつくってきた民族である。二人は本格的に台湾原住民族の歴史をつくっていくだろう。おそらく日本人はそれを呆然と見守るしかないのではないか。

終戦から六十一年、台湾の原住民の人たちの暮らしぶりも部落の様相も、我々が想像する以上に大きく変わりつつある。そんな感慨を強くしている。
*写真は1995年、私が東京に同行した原住民族の「老兵」たち。