07年「市場抑制」はいったい何を意味するのか 1 リュウ・ギョンウォン
はじめに
二〇〇七年一〇月、南北首脳会談開催とほぼ同時に「革命の首脳部」(注5)は全国一斉に市場に対する制限を強め始めた。
政府が市場の抑制に出る度に感じるのだが、朝鮮では一度も市場を経済的方法で改善した歴史がない。
言い直せば、課税や国営商業の競争力の向上、国家供給制(計画経済)の信用回復といった経済的方法によってではなく、強制閉鎖、商人に対する殴打、商品の無償没収および横領、ひいては商人の奥地追放などといった、公権力濫用に近い非経済的方法によって市場問題の対策としてきた。

このように経済問題を、非経済的方法で扱う朝鮮のやり方は、以下に示す二〇〇七年一〇月の指示文からもうかがえる。また、今回の措置は、一部で指摘のあるような、政府による単なる市場弾圧ではなく、強い抑制なのだと考える(その理由は後に述べる)。

非経済的方法を取るのは「思想が全てのものを決める」と主張する「主体思想」が朝鮮の指導イデオロギーだからでもなく、また「革命的軍人精神さえ貫徹すれば万事解決できる」という先軍思想理論ゆえでもない。
今や北朝鮮の市場は、不正蓄財を狙う権力層と、生存を賭けた住民との対決の場になっている。

それでは政府が市場を抑えれば、いかなる結果が生じるのか、今回の抑制措置に込められた特別な意味は何なのか?
私は解説記事を書いてほしいという編集部の要請を踏まえ、我が国の「市場の歴史」を簡潔に要約してみようと思う。
(つづく)

注1 八〇年代末縲恚縺Z年代初め北朝鮮は、大量の小麦輸入元だった社会主義市場の終局的崩壊とともに、食糧配給能力が根底から揺らいだ。
咸鏡北道、両江道、慈江道から始まった食糧配給途絶の波が、とうとう平壌にまで押し寄せてきた。
この時期に起きた金日成の死亡を、執権者らは経済的難局に対する責任を政治的にごまかす逃げ道に利用した。すなわち配給は突絶したまま、農民市場だけを抑制したのだ。

その理由なるものはすなわち、故金日成の「三年葬」(故人に対する服喪を三年間続ける封建的な儒教風習)を催すので、住民の商活動は禁じる、ということであった。
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