両江道の協同農場。住宅の周りに生い茂っているのは、カボチャや豆、キュウリ、トウモロコシなど、自留地に自己消費分として植えられた作物であったが、農場での共同耕作よりずっと生産性が高かった。農民市場に売って現金化できたからである。(1993年7月 石丸次郎撮影)

両江道の協同農場。住宅の周りに生い茂っているのは、カボチャや豆、キュウリ、トウモロコシなど、自留地に自己消費分として植えられた作物であったが、農場での共同耕作よりずっと生産性が高かった。農民市場に売って現金化できたからである。(1993年7月 石丸次郎撮影)

 

07年「市場抑制」はいったい何を意味するのか 3 リュウ・ギョンウォン
五〇年代末~六〇年代 農民市場の凋落と国営商業の確立
朝鮮では一九五八年、農村個人農と都市商工人の協同組合化が完成し、一九六二年には今と同じ里(リ)単位の協同農場化が完了した。
この時から農民市場はひとまず凋落、全人民に国家が消費物資を販売する国営商業だけが唯一の商業形態として残った。

それに続いて、一九六六年には農業現物税制度が完全に廃止され、また一九七四年四月一日からは、住民直接税まで完全に廃止して「税金のない国」が奇跡のように打ち建てられた。
ところがまさにこの時期、(現在朝鮮の農場の状況がそうであるように)農民の食糧消費にまで配給制が導入された結果、農家の現金収入の割合は、農場労働よりも個人畑(自留地)の比重が自ずと高まった。

また五〇年代後半に大量に産まれた朝鮮戦争後世代が成長して学齢期に入るなど、人口構造の変化によって、消費財の甚だしい不足が生じた。
さらにまずいことには、一九六七年以後、「唯一思想体系確立」という金日成絶対化の嵐が吹き荒れ、「首領に対する忠誠心の表現」が、大記念碑建設として現れて、膨大な非生産的消費が重なった。
しかも社会主義市場は以前のように順調に機能せず、むしろ借款の償還を迫られるようになった。

このような問題を解決するため、日本の朝鮮総連からの「愛国的支援」などを奨励したが、これが資本主義商品に対する特権層の強い欲望=「物欲」を生じさせ、社会主義制度と計画的な国家商業に対する、後の無秩序と破壊のきっかけを作ることになった。
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