エクアドル・リタで暮らす難民のリーダー、ルイスさんの父、フベナルさん。かつて地域の指導者として活躍していた。その魅力的な人柄に沢山の人々がついて行ったのだろう。(2009年9月 コロンビア ナリーニョ県クンバル 撮影 柴田大輔)

 

第11回 国内避難民の生活

エクアドルで出会った難民の家族を訪ねて、コロンビア南部のナリーニョへ向かった。
2009年9月、エクアドルから国境を越えてコロンビアへ入国する。標高3000メートル近いクンバルという町に、ルイスさんの両親が暮らしている。教えてもらった住所を頼りに、自宅を訪ねた。

母親のラウラさんと父親のフベナルさんが迎えてくれた。2人には以前リタで会っていた。リタには、ルイスさんの他にもう1人、娘さんが暮らしている。2人はお金が入ると、国境を越えて子どもや孫に会いに行くのを楽しみにしている。エクアドル入国の際、コロンビア人に対して90日の滞在ビザが国境で比較的簡単に手に入る。

フベナルさんの奥さんのラウラさんは、「自分の土地で暮らしたい」と願う。(2009年9月 コロンビア ナリーニョ県 クンバル 撮影 柴田大輔)

お土産に市場でアボガドを買っていった。スペイン語で「アボガド」は弁護士という意味になる。以前冗談で、「日本人は弁護士を食べるんだよ」と話したのを覚えていて、「あら、弁護士いいわね。」とラウラさんが明るい笑顔をかえしてくれた。
2人ともクンバル出身のパスト民族だ。ここで結婚し、その後、アワ民族が暮らすコミュニティーへ移った。

フベナルさんは、そこで法律の重要性を説き住民を組織していった。そして、リカウルテという市の一集落であったマグイを、先住民族領域としてのレスグアルドへ格上げさせた。それが1995年のことだという。その一帯では初めての創られたものだった。

カマワリというアワ民族の地域組織の設立にも尽力したという。「いろいろ勉強して、何度もボゴタ(首都)へ通った」と当時を振り返る。しかし、そのコミュニティーも、その後暴力に巻き込まれていくことになる。
コミュニティーを去った彼らは、子どもたちと離れ、親戚が暮らす故郷のクンバルへ帰ってきた。「あそこは温かくて、いろんな作物を作れたんだよ」とマグイを思い出す。

その後、2007年にはマグイ周辺に対して軍による空爆が10日間続いた。栽培されるコカの撲滅のためだったといわれる。また、コミュニティー周辺にはゲリラにより地雷がまかれ、住民が畑に行くことが困難になった。
一時は全ての人が去り無人と化したそうだ。現在は状況が落ち着き少しずつ帰って行く人々がいるという。

「エクアドルで暮らそうとは思いませんか?」と聞いてみた。すると、「もっと若ければなぁ。そうしたら息子と何かできたよな」やはり彼の口ぶりはどこまでも穏やかで、悲しみの色を感じさせない。その大きな人柄に引き寄せられた。「日本に連れてってくれよ」ニヤリと笑みを浮かべる。

フベナルさんはもう80歳を超えている。マグイを作り上げた時、彼はすでに60歳代後半だった。私の想像だが、それは彼にとって人生の集大成の様な仕事だったのではないだろうか。苦労の末に作り上げた居場所を失った時、何を感じたのだろうか。

大きな体と小さな瞳、柔和な笑顔で冗談を飛ばす彼と、平穏な時代のマグイで出会っていたらと想像した。彼と山を歩いたらきっと楽しかったはずだ。
2人は親戚などの畑を手伝い最低限の収入を得ている。

親類の畑で働く避難民男性。「仕事がない」とこぼす。(2009年9月 コロンビア ナリーニョ県クンバル 撮影 柴田大輔)

 

クンバルにも沢山の避難民が暮らしている。それぞれが生きることに必死なのは変わらない。町の外れに避難民キャンプがある。そこでは、2007年にリタで出会ったある家族が暮らしていた。先の見えないリタを離れ、仕事のある場所を求め各地を渡り歩いているという。

市が用意したこの場所は、ただ広場があるだけで、後は各自で用意しなければならない。夜になると気温が5度を下回るこの地で、ビニールシートで作られた家で過ごすことは容易なことではない。

避難民キャンプで生活するパスト民族の家族。ビニールシート一枚の家で過ごしている。(2009年9月ナリーニョ県クンバル 撮影 柴田大輔)

 

父親の男性は、ソラマメの収穫のため先月からここに来た。収穫が終わったらまた別の場所へ行こうと考えていた。それはエクアドルかもしれないし、コロンビアの別の場所かもしれないという。
2年ぶりに会った彼の息子はいくつになったのか。歳を聞くのを忘れてしまった。以前よりはっきり話せるようになっていた。
国の避難民対策は全く機能していない。

一人ひとりが自力で何とかしなければならない状況にある。NGOや教会が援助に動いているが、いつ終わるともしれない紛争の中、資金的にも人的にも対応には限界がある。
避難民にとって、生活基盤を取り戻すきっかけをつかむことが何より難しい。
(つづく)

大きな地図で見るコロンビア・エクアドル地図(Googleマップより)
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(注)コロンビアはいま

国土の南北をアンデス山脈が貫く。(2008年3月コロンビア・ボヤカ県・コクイ山 撮影 柴田大輔)

全国コロンビア先住民族組織(ONIC)の調査によると、コロンビアには102の先住民族集団が暮らしているといわれる。その人種、人々が暮らす風土の多様性は伝えられる事が少ない。

南米大陸の北西に位置するコロンビアは、日本の約3倍の国土に、コロンビア国家統計局2005年国勢調査によれば、4288万8592人が暮らしている。先住民族人口は全体の3.4パーセント、135万2625人だ。
南米大陸を縦断するアンデス山脈がコロンビアで3本に分かれる。人口の大部分がこのアンデス山脈に集中する。首都ボゴタは東アンデス山脈の標高2640メートルの盆地に位置する。

5つに大別される国土は、熱帯の太平洋岸、青い海とともに砂漠を見るカリブ海岸、万年雪をたたえるアンデス山脈、熱帯雨林のアマゾン地方、リャノ平原が広がるオリノコ地方、まさに地球の縮図のようだ。そして各地には、草花とともに多様な自然に適応した生活を築く民族が暮らす。

コロンビアでは建国以来、紛争が繰り返されてきた。19世紀に、中央集権主義者(保守党)と連邦主義者(自由党)の対立を内包しながらスペインから独立すると、その対立は次第に激化し、1889年から1902年にかけて10万人の死者を出す千日戦争へと続いていく。

1946年より始まる暴力の時代(la violencia)では、両党の対立により全国で20万人以上の死者が出たといわれる。キューバ革命の影響を受け、1960年代に農村で左翼ゲリラが形成される。
現在も続く紛争は、60年代に形成されたコロンビア革命軍(FARC)と国民解放軍(ELN)、80年代に大土地所有者ら寡頭勢力がゲリラから自衛のために組織した右派民兵組織(パラミリタール)、政府軍が複雑に絡み合う。
1990年代に入ると、武装組織が麻薬を資金源とするようになり、生産地となる農村が武装組織の間に立たされることになっていく。
また、1999年に当時のパストラーナ政権により、国内復興開発を目的に策定されたプラン・コロンビアは、実質的には麻薬・ゲリラ撲滅を推進し、米国より多額の援助を受け現在も引き継がれている。
こうした紛争、暴力により、日本UNHCR協会ニュースレター「with you」2007年第1号のデータでは、300万人以上ともいわれる国内避難民、50万の難民を出し、先住民族社会もその影響を受け続けている。
(柴田大輔)


【柴田大輔 プロフィール】
フォトジャーナリスト1980年茨城県生まれ。
中南米を旅し、2006年よりコロンビア南部に暮らす先住民族の取材を始める。
現在は、コロンビア、エクアドル、ペルーで、先住民族や難民となった人々の日常・社会活動を取材し続ける。

【連載】コロンビア 先住民族(全13回)一覧