ハンブルグを訪ねて(その2)
ドイツ最大の港町ハンブルグも1943年7月には連合国軍による無差別空襲を受けて廃墟となり、3万5000人もの市民が犠牲になっている。炎の中を生き延びた空襲体験者や支援者ら30人を前に、「大阪空襲訴訟」原告団代表世話人の安野輝子さん(72)が自らの体験を語った。(うずみ火 矢野宏)

◆日独の空襲被災者が交流
2月18日、聖ニコライ教会の地下展示室で、ハンブルク空襲の被災者や研究者との交流会が開かれ、「大阪空襲訴訟」原告団代表世話人の安野さんが自らの体験を語った。

ハンブルク空襲から2年後の45年7月、当時6歳だった安野さんは米軍機が投下した爆弾の破片の直撃を受け、左足の膝から下をもぎ取られた。
「空襲で傷を背負わされた者にとって、戦後は生きるための新たな闘いの始まりだった」
と振り返る。

「終戦の翌年、松葉杖をつき、刺すような視線の中、小学校へ入学しました。遠足も運動会も参加できず、いつも傍観者でした。友達と楽しく過ごすことも少なく、雨が降っては休み、いじめられては休み、勉強にもついていけませんでした。いつも孤独で『私なんかあの時、助からなくてよかったのに』と思うようになっていました。結局、中学校も中退し、私の短い学校生活は終わりました」

時折、涙をこらえながら語る安野さんの一言一言を、ハンブルクの空襲被災者たちも聞き入っていた。中にはハンカチで見頭を抑える女性も。
安野さんは、日本はドイツとは異なり、戦後67年にわたって民間の空襲被害者を「棄民扱い」にしてきたと訴え、提訴に踏み切った理由を述べた。
「民間の空襲被害者は受忍しなければならないという『戦争損害受忍論』を押しつけてきた日本政府の態度は、人間としての尊厳を踏みにじり、惨めなものにしてきました。裁判に訴えたのは、子や孫の世代に『あなたのおばあちゃんは戦争損害を受忍したんだよ。あなたたちも受忍しなさい』と言わせてはならないという思いからでした」。

ドイツは、敗戦によって「戦争犠牲者のための援護法」が廃止されたあと、当時の西ドイツ国内で「職業に従事することが困難な戦傷病者や戦没者遺族には十分な生活費が支給されるべきだ」という声が上がり、1950年に「連邦援護法」が制定される。
「軍務または、準軍務に関連して損傷を受けた場合には、本人またはその遺族に対して援護法が適用される」と定められ、損傷の範囲は「戦争の直接的影響などによる損傷も援護の対象」とされている。対象は「戦争で傷を負うなどして労働できない人」で、軍人と民間人との差別もない。
給付の内容として、医療(リハビリを含む)、障害年金(障害の程度に応ずる)のほかに、遺族年金(寡婦年金、遺児年金、父母年金など)もあり、戦災孤児も補償の対象となっている。

2年後には「負担調整法」が制定され、人身被害だけでなく、物的損害の補償もなされるようになった。戦時中に利益を上げた会社や個人から財産の一部を負担させ、家財や仕事などを失った人たちに補償している。
「戦争の後始末をきちんとさせることが本当の平和国家の実現につながると思っています」
と語る安野さんは一昨年、日本軍が無差別爆撃を行った中国・重慶を訪ねたことに触れ、こう訴えた。

「ドイツの空襲被害者と交流する中で、あらためて空からの無差別爆撃の残酷さを痛感しました。私の空襲被害者としての残りの人生は、国境を越えて、子や孫の世代に同じ苦しみを繰り返さないためにあると確信しました」。
非道な空からの虐殺を繰り返さないため、その残酷さを後世に語り伝えよう。国境や言葉の違いを越えて、日本とドイツの空襲被害者がともに手を取り合って、そう誓い合っていた。
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