美香さんがいなくなってしまった。
紛争・戦争の地からの、「日本人ジャーナリストが死亡」の報せは過去何度か聞いている。2004年に橋田信介さんと小川功太郎さんがイラクで襲撃されて殺害された。07年にはビルマで長井健司さんが射殺された。私にとって彼らは、取材現場で会ったり、話をしたりした方々だった。99年にはアジアプレスの同僚だったアグス・ムリアワン(インドネシア)も、東ティモールで殺害されている。
それらすべてに衝撃を受け、しばし呆然としたことは共通している。
だが、美香さんの突然の訃報は、過去のどれともまた異なる衝撃と呆然、そして"痛さ"が胸に突き刺さってくるような思いだ。
亡くなった山本美香さんと、彼女のパートナーだった佐藤和孝さんは、過去に「会ったことがある」「話をしたことがある」という間柄ではなく、私にとっては取材現場での「恩師」や「水先案内人」のような二人だった。
日本で会って話をした回数や時間よりも、アフガン・イラク・レバノン、そして、その周辺国のヨルダンやパキスタンなどで話をしたり、食事をしたりする回数と時間の方が圧倒的に多くて長い。
取材中の緊張と、それから一息ついた合間の両方の時間と空間を、彼らと一時少しだけ共有したような気がしている。
彼らからは本当にいろんなモノを現場で借りた。ビデオカメラのバッテリーやテープは頻繁に、カップヌードルやレトルト食品も何度もごちそうになった。そして、ときにUSドルの現金(2000ドルも!)まで、多くのモノやカネを借りて、何かをいただいた記憶が残っている。
しかし、何と言っても彼らから教えてもらったことは、「情報」だった。
不備なく国境を越える方法。密かに入国ビザを入手する方法。持参すべき備品。信頼できる地元の協力者や通訳......。そして、身の安全にかかわる「情報」だ。「あのエリアは危ない」という警告から、「この一帯は大丈夫」というような安心まで、多くの場面や場所で、「いつも現場にいる」彼女たちから教えてもらった情報のおかげで、私はその局面を無事に切り抜け、そしていま生きている。
それらの「借り」を返すことができないまま、美香さんは逝ってしまった。
美香さんと佐藤和孝さんの「助け」がなかったら、いまの私はいないかもしれない。いつも、私に声をかけてくれた二人だった。
「リビアは、トリポリ目指しますか?また状況など教えてください!」
東日本大震災が発生する1週間前(2011年3月5日)、美香さんから届いたメールの言葉だ。リビア取材の準備をしている最中に起きた大震災と大原発事故で、私は福島に急遽向かい、彼らも津波の被災地に入っていた。そのメールが最後のやり取りで、1年半の間が空いて、そしてシリアからの悲報を聞く。
よく考えると、美香さんが私に教えてくれたことは無数にあるが、私から美香さんに教えたことはほとんど何も無い。美香さんがいなくなってから、それに気付いている。
ごめんなさい、美香さん。でも、また教えてください、美香さん。そして、何よりも佐藤和孝さんのこれからの取材も見守ってください。美香さんと佐藤和孝さんは、これからもどこかの国で、"二人で"いつもどおりに取材を続けることでしょう。
美香さんは「いなくなった」のではなく、いつも、どんなときでも、「そこにいるんだ」と、世界各地の空を見上げながら、僕は思い続けます。
さようなら。でも、また会いましょう。綿井健陽

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