背広姿が垣花武一さん(栗原佳子)

背広姿が垣花武一さん(栗原佳子)

太平洋戦争末期の沖縄戦で、米軍が最初に上陸したのが慶良間(けらま)諸島の阿嘉(あか)島だ。慶良間の他の島々と異なり、住民の「集団自決」を免れた。米軍上陸から71年になる3月26日、体験者の垣花(かきのはな)武一さん(86)を訪ねた。(栗原佳子/新聞うずみ火)

「71年前もこんな穏やかな日でしたよ」。垣花さんはそう口を開いた。山中から、米軍の「無血上陸」を目のあたりにしたという。

「水平線がでこぼこしてくるのです。兵隊に聞くと『あれは艦船だ』と。びっくりするどころじゃない。そして海から直接、白い砂浜に真っ黒い芋虫みたいな物体が登ってくる。『水陸両用車』でした」

当時、阿嘉島には陸軍海上挺進第二戦隊が駐留。15歳だった垣花さんは、同世代の少年たちと「少年義勇隊」の名で軍の末端に組み込まれていた。

海上挺進戦隊は爆雷を搭載したボートで米艦船を襲う「海の特攻隊」。日本軍は米軍の沖縄本島上陸を想定し、慶良間諸島に配備した。しかし米軍は作戦の裏をかき、最初に慶良間諸島を攻略。3月26日、阿嘉島、慶留間島、座間味島、翌27日には慶良間海峡を隔てた渡嘉敷島に上陸した。住民の「集団自決」はこの時起きた。合わせて約700人が亡くなった。

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