残飯を入れてもらうビニール袋を持って闇市場を徘徊するコチェビの少年たち。1999年9月咸鏡北道の茂山(ムサン)郡にて撮影キム・ホン(アジアプレス)

残飯を入れてもらうビニール袋を持って闇市場を徘徊するコチェビの少年たち。1999年9月咸鏡北道の茂山(ムサン)郡にて撮影キム・ホン(アジアプレス)

 

平壌と中国国境地域への通行証は1枚当1000ウォンもした。ちなみに、当時名目上の公務員平均月給は100ウォンだった。また一般地方への通行証1枚は50ウォンであった。平壌は、すでに金のない忠誠分子や貧乏人には閉鎖されていたようなものだった。

さて、このように厳重な平壌市出入の警戒網によって「バルチザン」的行動で将軍様に悲惨な現状を報告に行こうとした忠実な少年団員の99.9%が、間里までの三段階の検閲ですべて引きずり下ろされた。

子供たちの取締りに動員される少なくない警察官たちも悲痛な心情を隠せなかった。平壌に到着した車両から「パルチザン」の潜入が発見された場合、その担当警察官は降車処罰、警察の副業地である「農作業組」に革命化として回されてしまうのだ。

この時期はというと、護衛局(最高幹部の警護担当局)のような最高の権力機関であっても、勤務する本人分の食糧以外の一切の配給がストップしていたので、処罰を受けた列車警察官は乗客からの収賄のヒモが断絶されてしまうと、扶養する家族を絶望状態に落としてしまうのだ。

その一方で、車両の椅子の下や屋根、連結部、ボイラー、小モノいれ、床下の構造物に隠れている幼い少年少女らを探し出し、列車から叩き出す取締りは、人間として、しかも潔白な児童に対しその様に行動するよう忠誠心を助長鼓舞してきた国家の警察官として、心に深いトラウマを彫み込むことになった。

拘束された児童はあまりに幼く、強制労働をさせることもできず、また食糧を調達する方法もないので、集結所送りの対象にもできず、何の連絡も対策もないまま、その駅舎から外に追い払われた。一文もない少年少女らは、怨恨を抱いたまま餓えて、道端にばたばたと倒れていった。

消えていく最後の息吹をやっと保ちながら、忠誠に燃えた少年団員たちは何を考えただろうか。亡国の「抗日児童団」を考えただろうか。でなければ、戦時後退期の「少年パルチザン」を思い描いただろうか。それとも母に甘えた日々を思い出しながらその短い人生を終えただろうか。

今もあの少年団たちの倒れた光景を思い出すと、私は胸が痛んでいたたまれなくなる。こうして、最も核心的な共和国の未来である子供たちは、自分の国の青空の下で、パニックで右往左往する人々の溢れる道端に捨てられたまま、無惨にも、無惨にも死んでいったのであった。この1995年、このようにして共和国のコッチェビ第1号が生み出されたのである。(続く)

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